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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅1

日本橋神田本郷巣鴨〜板橋駅

作者 Hitosh



日本橋 


日本橋川




日本橋




道路元標




三越本店前



日本の道路元標のある日本橋

2月11日朝9時
いよいよ旧中山道の六十九次 ぶらり徒歩の旅のスタートである

写真は上から日本橋川(東側)、日本橋、道路色元標、
旧中山道の第一歩である三越本店(旧三井越後屋)前である


今回は写真仲間の2人が途中まで同行してくれた


(東京都中央区日本橋)



神 田 


三井越後屋ステーション



三越本店斜め前にオープンした三井越後屋ステーション

江戸時代の呉服商であり、流行の発信地でもあった
その三井越後屋の外観を再現したもの

この辺はかつて、伊勢、近江、京都等の上方商人の江戸店(えどだな)が
軒を並べていたところ

三井越後屋ステーションでは
日本橋の老舗、名店の商品販売や企画展示会等が行われている




神田駅ガード下



神田駅東口前のガード下にある
彫刻家田中昭作の「健やかに」のブロンズ像である

排気ガスで薄汚れているのが残念であった




秋葉原電気街



神田須田町交差点より秋葉原万世橋方面を見た写真である
道路を横断している鉄橋はJR中央線である

かつてはこの辺に「筋違見附(すじちがいみつけ)」のあった所である

旧中山道は左手の細い道である




昌平橋



神田川に架かる橋
寛永年間(1624〜44年)の架設とのこと

橋の名前は上流左岸にある幕府直営の漢学校昌平坂学問所よりきている
昌平は、孔子生誕の地名

旧中山道はこの橋を渡る




神田明神



昌平橋を渡るとすぐ右手に神田明神(神田神社)がある

江戸の氏神であり、また平将門を三ノ宮としていることから
江戸庶民に人気があった

特に神田祭は天下一の祭礼(天下祭、御用祭)として有名

なお一ノ宮は大己貴命、二ノ宮は少彦名命で
これら三柱の神が祀られている


(東京都中央区)


湯島聖堂



湯島聖堂は旧中山道を挟んで反対側にある
朱子学を中核とした幕府の昌平坂学問所の跡である


(東京都文教区)




本 郷 


かねやす



湯島を抜け、東京医科歯科大、順天堂大の裏を通り本郷に入る

写真右の建物は本郷三丁目の角にある「かねやすビル」である
江戸の川柳に「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と詠まれたところだ
江戸時代、内口中医師(今の歯科医)兼康裕悦がここで乳香散という歯磨き粉を
売り出したら江戸中の評判になった由

防災上の理由で、町奉行より本郷までは
塗屋、土蔵造りを勧め、屋根は茅葺を禁止し瓦葺とした
その境目がこの「かねやす」で、当時は大きな土蔵があった

そして、この先の旧中山道沿いは
板や茅葺の家並みとなっていた


(東京都文京区本郷)



法真寺



「別れの橋跡」を過ぎると左手に法真寺がある
樋口一葉の「ゆく雲」に、この法真寺の濡れ仏が紹介されている

この寺の左手にかつて樋口一葉が住んでいた
桜木の宿(さくらぎのやど)があった
4歳から9歳までの5年間住んでいたところだ

なお、「別れの橋」は、江戸追放されたものがこの別れの橋で放たれ、
本郷三丁目よりの坂で家族や親族が見送ったことから
見送り坂、見返り坂とも呼ばれていた




東大赤門



加賀藩上屋敷跡である

赤門は、11代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ)が加賀藩に
嫁ぐ時に前田家で建造したもので、正式には
御守殿門といい、重要文化財に指定されている




東大キャンパス



東大のキャンパスである
医学部には、仕事で毎日のように何年も通った事があるので
非常に懐かしかった

今日は休日のせいか
学生より観光客の方が多かった




三四郎池



加賀藩の育徳園と呼ばれた庭園の一部で
心字池(しんじいけ)といった
山手台地の谷に湧出する自然の泉であった

夏目漱石の「三四郎」の舞台となったため
三四郎池と呼ばれるようになった

学生時代に文学散歩で訪れた事があるが
その時の佇まいのままであった




本郷追分



東大農学部正門付近で旧中山道は左に折れる
右方向は日光御成道(岩槻街道)であった

追分にある高崎屋酒店(写真)は江戸時代より続いている老舗である
中に当時の看板や絵図が残されている

この高崎屋の前に中山道最初の一里塚があった
日本橋より歩いて4kmである


(東京都文京区本郷)



浄心寺坂



白山に入ると、左手にこの浄心寺坂がある
坂の名の由来は、近くに浄心寺があったことによる

坂を少し下ると、右手に八百屋於七で知られた円乗寺がある


(東京都文京区白山1丁目)



八百屋於七之墓



円乗寺の境内に八百屋於七の墓がある

於七の家の菩提寺で、家が火災で焼失したとき
この寺に避難し、寺小姓の左衛門に出会ったところである

大勢の人が今日も訪れていた


(東京都文京区白山一丁目)



白山上




斜め右に入る道は土物店新道(つちものだなしんみち)と
呼ばれていたところである
この辺りは、神田、千住と並ぶ江戸の三大青果市場で
幕府の御用市場でもあった

土物とは、大根やゴボウなどの土の付いた野菜をいう

旧中山道は左手の道である
ここで、回転寿司屋に入って、昼食をとった


(東京都文教区白山上)



巣 鴨 


巣鴨駅前



巣鴨駅手前の左手に徳川慶喜巣鴨屋敷跡
そしてJR山手線の鉄橋を渡ると左手に
日本で最も一般的となった桜の染井吉野の碑がある

染井とは巣鴨駅から駒込駅付近にあった染井村からきている
染井吉野は、幕末にここで生み出された新品種の桜のことである

巣鴨の駅前はすごい人通りである
おばあちゃんの原宿とは良く言ったものだ


(東京都豊島区巣鴨)



真性寺



巣鴨でお地蔵さんと言えば、この真性寺であった

現在では、高岩寺の「とげぬき地蔵」の人気が高いが
こちらは、明治24年に上野下谷から移転してきたものだ

真性寺の笠を被った大きな地蔵は、江戸六地蔵の一つで
正徳4年(1714年)に建立されたものだ




とげぬき地蔵



高岩寺の山門

とげぬき地蔵として有名
とげが抜けるように病気が治るという

野外にある「洗い観音」が人気で、順番待ちで列を作っていた




庚申塚駅



真性寺と高岩寺の間の道は地蔵通りと呼ばれているが
この道が旧中山道である

その中山道と交差しているのが都営荒川線
今でも残されている懐かしい路面電車(都電)である

庚申塚のすぐ側を走っている
この辺は、かつては染井の植木商や種苗商が並んでいたところである




滝野川町並



更に進むと、桜で知られた滝野川である
庚申塚から板橋宿までは庚申塚通りと呼ばれている

旧街道らしさが少し残されているところだ


(東京都北区滝野川)



近藤勇墓



JR板橋駅の東口の向側にある
近藤勇と土方歳三の墓がある

かつてはこの近くに処刑場があり、近藤勇が処刑された

生き残った新撰組の永倉新八が
函館で死んだ土方と連名の墓を作り弔った由

☆ ☆

旧中山道六十九次の記念すべき第一歩はここまででとする
今回は、京都三条大橋まで全長533.9kmの足慣らしである

今回は、寄り道を除いて、旧街道だけの実歩行距離は9.13kmであった


(東京都北区滝野川)
0602/0608



歩行略図

歩行距離 9.4km
(青線部を歩行)





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