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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅3

4大宮宿5上尾宿6桶川宿北本7鴻巣宿


作者 Hitosh




大宮宿

大宮駅前



3日目は大宮駅からである
朝の8:40に駅に着いた

大宮駅を出て、少し歩くと旧中山道と交差する
この道が旧中山道であるが、その面影は全く無い
珍しいくらい、史跡・石碑の類も設置されていない

このような道を800m程進むと、右手に
氷川神社の裏参道がある

以前に来た事があるが、やはり、武蔵国一ノ宮であるので
立ち寄った
そして道中の安全祈願をした


(埼玉県さいたま市宮町)


氷川神社





上の写真は氷川神社の表参道である
江戸時代以前はここが旧々中山道であった

下の写真は舞殿と拝殿である


(埼玉県さいたま市)

南方神社



変わった名前の神社である
南方(みなみかた)神社という

この神社を過ぎると、いよいよ上尾宿に入る


(埼玉県さいたま市)

5上尾宿

上尾駅前通り



上尾駅付近の旧中山道である
この辺に、かつて本陣があった
今は、本陣跡を示す案内標識もない

上尾宿は本陣1、脇本陣3、旅籠41軒の宿場であった


(埼玉県上尾市)


氷川鍬神社



上尾宿総鎮守の氷川鍬(くわ)神社

もともとはご神体が小さな鍬二丁であったため
鍬太神宮と呼ばれていたが
後に氷川女体神社と合祀したので氷川鍬神社と名を変えた

この右手の石碑には二賢堂(じけんどう)の説明
学僧の雲室上人が天明8年(1788年)、ここに学舎を建てた

学門の神様菅原道真と儒学の朱子を合わせて祀った
ことにより二賢堂と名付けたとのこと


(埼玉県上尾市)


上尾宿上木戸



上尾宿の外れに、上尾宿の碑があった
上尾宿の上木戸(京方)のあったところである


(埼玉県上尾市)

桶川宿

桶川市街




ここから桶川市に入る
この先200m右側に桶川宿下木戸跡の石碑がある

桶川宿は本陣1、脇本陣2、旅籠36の宿場であった


(埼玉県桶川市)


武村旅館






上の写真は、江戸時代より続いている武村旅館
江戸時代の旅籠「紙屋半次郎」で、今も営業している

下の写真は、武村旅館の斜め前にある
古い民家を利用した桶川市営の「中山道ふれあい館」である

60歳以上の高齢者用で
仲間作りやふれあい交流の場所として
オープンしたもの


(埼玉県桶川市)

島村家土蔵



木造3階建の土蔵で、天宝7年(1836年)に建てられた
島村家は、本陣近くの穀物問屋「木嶋屋」の総本家であった

市内で現存する最古の建物で、国の登録文化財に指定されている


(埼玉県桶川市)

桶川宿本陣跡


桶川宿本陣跡(府川本陣)である
埼玉県に残る、唯一の本陣遺構として、県の指定文化財に指定されている

ここに皇女和宮も宿泊したという
左の石碑は「明治天皇桶川行在所」と彫られている


(埼玉県さいたま市)

稲荷神社



桶川の紅花は京都や江戸では
桶川臙脂(えんじ)と呼ばれ、珍重されていた

天明・寛政年間(1781〜1801年)に栽培が始まったという
出羽最上に次いで、第2位の出荷量であった

この稲荷神社の前の一対の石灯篭は
当時の紅花商人達24人が共同で奉納したものである
一人一人の名前が刻まれていた


(埼玉県桶川市)

大雲寺





大雲寺(だいうんじ)境内左手に、正徳3年(1713年)と台座に刻まれた
女郎買い地蔵(写真右)がある

この地蔵は、毎夜女郎買いに出かけるので
住職によって鎖で縛られたとの伝説が残されている


(埼玉県桶川市)

桶川宿上木戸跡



赤い建物の前の角に桶川宿の石碑あり
ここが、桶川宿の上木戸のあったところである

次は間の宿北本である


(埼玉県桶川市)

北本


本宿入口



ここから本宿である
左手の道標には「中山道・北本宿」と彫られている

中山道69次には無いが、江戸時代の初期には、ここが中山道の鴻巣宿駅であった
その後、中山道の整備に伴い、現在の鴻巣に移動した

そのため、ここは本宿(元宿)と呼ばれるようになった
今でも北本市本宿と地名が残されている

江戸時代は、本宿村に下茶屋、
東間村に三軒茶屋の2箇所に立場が置かれていた

なお、現在の北本は、本鴻巣宿−本宿−北・本宿−北本と変遷したようだ


(埼玉県北本市)


ムクロジの木





多門寺の境内にある天然記念物ムクロジの木である
高さ27m、樹齢200余年とのこと

なお、ムクロジの樹高は、普通10から15mである

真言宗多聞寺は万治4年(1661年)の開基


(埼玉県北本市)

天神社



多聞寺に隣接して天神社がある
菅原道真を祀った神社だ

江戸時代中期よりの鎮守で
2月と10月の15日の祭りの日に
「ささら獅子舞」が行われている

ささらは簓と書き、民俗楽器の一つで
20cmくらいの竹の先を細かく割って束ねたもの

さらさらと音がするから「ささら」というようだ


(埼玉県北本市)

旧中山道街並



北本市深井付近の旧中山道である
大きな木のある屋敷が目につくところである

この深井の次は、今日最後のコース、人形の街鴻巣宿となる


(埼玉県北本市)

鴻巣宿


鴻巣市入口



ここからが人形と花卉(かき)の街・鴻巣市である

かつては本陣1、脇本陣1、旅籠58軒の宿場町であった


(埼玉県鴻巣市)

人形町




市内には人形町と言う地名が残されている

鴻巣は、雛人形の関東発祥の地で370年の伝統がある

江戸時代中期、京都の職人が中山道を下り
この地で、雛人形の製造をしたのが始まりとか

当時は鴻巣雛、新田(しんでん)雛と呼ばれていた
現在でも、約30軒の人形店(製造・販売)がある


(埼玉県鴻巣市)

勝願寺




関東郡代墓碑




勝願寺仁王門



勝願寺(しょうがんじ)は約700年前の創建とか
現在の寺院は、天正元年(1573年)に再興されたもの

寺に三つ葉葵の紋があるのは、かつて家康が鷹狩で度々この地を訪れ
当寺の不残上人の学識に感銘し帰依したことによる

そして、葵の紋を使用することが許されたとのこと
今でも、その紋が軒丸瓦や仁王門(下写真、屋根の上)に残されている

その後、鷹狩の時に家康が泊まる御殿がこの近くに建てられた

関東郡代の伊奈忠次、忠治の墓(写真2枚目)や譜代の牧野家
信州真田藩祖真田信之の夫人・小松姫
信之の3男真田信繁夫妻の墓等が残されている

また、人形の供養碑が境内に築かれている

今回はここで、旧中山道歩きを中断して
JR鴻巣駅より帰宅した


(埼玉県鴻巣市)
0604/0608/1206

歩行略図

歩行距離 20.9km
(青線部を歩行)












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