9深谷宿
深谷市東方町
今回は籠原駅からスタートである
駅に着いたのは8:19であった
☆ ☆
籠原駅を出ると、すぐ深谷市に入る
旧街道は、急に視界が開け明るくなる
今までは街道の両側に続いていた家並みが途切れ
広々とした畑が広がっている
県下最大の農業地帯である
深谷は荒川と利根川に挟まれた洪積扇状地に発達した町で
中世には深谷城があった
江戸時代は土質(粘土質)が瓦製造に適していたため
瓦と土管製造が盛んであった
明治に入り、日本最初の洋式煉瓦工場が設立された
JR東京駅の赤レンガはすべてここ深谷で作られたものとのこと
深谷ネギでも知られたところである
(埼玉県深谷市東方町)
国済寺
旧街道の右手に愛宕神社、そして左手に国済(こくさい)寺がある
深谷上杉氏の祖となった上杉憲英(のりふさ)が
康応2年(1390年)創建した寺で深谷上杉氏代々の墓がある
黒門は深谷市指定文化財となっている
(埼玉県深谷市国清寺町)
深谷宿東木戸・常夜灯
ここからが旧深谷宿である
東木戸のあったところで、当時の常夜灯が残されている
この手前にある有名な樹齢400年以上という見返りの松は
ごく最近、強風で倒れ、今は記念碑を残すのみとなっていた
深谷宿で一夜と共にした飯盛女が忘れられずに
東木戸を出た旅人が後を何度も振り返ったところという
次の熊谷宿には飯盛女がいなかったので、事の外
深谷宿が印象的であったようだ
また、深谷宿は宿場町、市場町として県下で第一の賑わいの街であった
本陣1、脇本陣4、旅籠は80軒もあったという
(埼玉県深谷市国済寺町)
深谷町並
深谷宿の現在の町並である
下の写真の飯島印刷(中央右)とあるところが
かつては飯島本陣のあったところである
(埼玉県深谷市深谷町)
深谷宿西木戸・常夜灯
ここが深谷宿の西の出口(西木戸)である
東木戸から西木戸の間は東西約10町(1090m)であった
左手に呑龍院、右手に常夜灯がある
(埼玉県深谷市田所町)
清心寺
深谷宿を出て、少し行き、左折しJR高崎線の踏切を渡ったところにある清心寺
平清盛の弟、平忠度(ただのり)の供養塔があることで知られている
一の谷の戦いで、忠度を討ち取ったのが
武蔵七党の一つ猪俣党の岡部六弥太忠澄(ただすみ)であった
平家物語や平治物語、保元物語にも記されている話である
戦いの後、忠澄は領地内でもっとも景色の良いこの地に
忠度を偲んで供養等を建てたという
(埼玉県深谷市萱場)
滝宮神社・巨木
手前の道は現中山道(国道17号線)である
旧中山道は左正面の道路である
その角にあるのがこの滝宮神社(たきのみやじんじゃ)である
室町時代(明応七年、1498年)から続く村の鎮守であった
この裏手に湧水を利用したひょうたん池と呼ばれた大きな溜め池があった
境内の欅の巨木は市の保存樹木に指定されている
予想通り、街道沿いに食事どころが無かったので
境内を借り、持参したおにぎりとビールで昼食を済ませた
これから当分は昼食持参の徒歩の旅となる
この神社を出ると、次は漬物で知られた岡部町である
(埼玉県深谷市宿根)
岡 部
岡部・源昌院
深谷の滝宮神社を抜けると、岡部町に入る
かつて岡部藩のあったところで、岡部町に入るとすぐ右側にこの源勝院がある
岡部藩主の菩提寺である
本堂の左に藩主安部(あんべ)一族の墓12基が
一列に並んでいるのには圧倒された
安部氏は今川義元にに仕えていたが
後に徳川家康に仕え、関東入国と共に
ここ岡部領の藩主となった
この寺の左手(写真左)は岡部神社である
岡部六弥太郎忠澄の祈願所でもあった
そして一の谷の戦功に感謝し、境内に杉を植えたという
(埼玉県深谷市岡部)
岡部・旧中山道
岡部町に入ると、周囲が広く開けてくる
写真は街道右手を見た写真である
旧街道は広大な平野部のやや高い所に出来ている
岡部の漬物は関東第一と言われている
街道筋にも何軒かの漬物工場が目に付いた
(埼玉県深谷市岡部)
島護産泰神社
岡部駅口の角に島護産泰神社がある
最初、この神社の名前は読めなかった
調べてみると、「とうごさんたい神社」と読むそうだ
この地区は利根川の氾濫に悩まされていたところで
北西島、南西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島と
島の名前の付いて所や横瀬、中瀬など瀬の着いた地名が多い
四瀬八島と呼ばれていたところである
氾濫原よりやや高い土地を島や瀬と呼んでいたようだ
人々はその上に住んでいた
その島状の地域を守る神社と言う意味である
産泰は安産を意味するという
(埼玉県深谷市岡)
百庚申
岡部を抜けると、緩い坂を下り、利根川支流の小山川に出る
その途中の左側に丁度旧中山道を見下ろすように
沢山の庚申塔が建てられている
万延元年庚申の年(1860年)、田島新兵衛を中心に
岡の有志13人によって建立されたという
左上は八坂神社である
(埼玉県深谷市岡)
滝岡橋
八坂神社の前の坂を下ると目の前が小山川に架かる滝岡橋である
この小山川を渡ると本庄市堀田に入る
旧中山道はこの川沿いの自然堤防の上であった
見晴らしも風通しも良く、歩行者にとって快適な道である
ところが、今回は失敗した
新しいウォーキングシューズで行ったため
久しぶりにマメがつぶれ、土手の砂利道が辛く遠い道のりとなってしまった
(埼玉県本庄市)
旧小山川合流点
小山川と元小山川の合流点である
写真の左が小山川である
旧中山道は右の元小山川沿いの道となっている
この辺は送電線の多いところであった
(埼玉県本庄市堀田)
八幡大神社
元小山川沿いにある牧西村の鎮守八幡大神社である
写真背後が元小山川である
無形文化財である金さな(金遍に賛)神楽(かなさなかぐら)宮崎組が
伝承されているところだ
使用されるお面は正徳年間(1711〜1716年)以前のものとか
(埼玉県本庄市牧西)
10本庄宿
旧街道
元小山川沿いの道を歩き、この先の榜示堂の手前を左に曲がると
元小山川に掛かる新泉橋がある
この橋を渡る本庄宿である
(埼玉県本庄市榜示堂)
本庄宿本陣跡
本庄は武蔵七党の一つ児玉党が起こった所である
その流れの一つが本庄氏でこの地を本拠としていた
本庄宿に入り、埼玉信用金庫(田村本陣)と群馬銀行(内田本陣)の
ところに二つ本陣があった
今は、その標識さえも無いが、救いは、当時の田村本陣の門が
北へ曲がって少し行った慈恩寺の手前の歴史民俗資料館に
移され保存(下の写真)されていることだ
脇本陣2、旅籠はなんと70軒もあった
武州路では最大の宿場であった
(埼玉県本庄市中央1丁目)
金さな神社・楠天然記念物
本庄宿の西の外れにあるのがこの金さな(金遍に賛)神社である
本殿は享保9年(1724年)に建てられたもの
寛永16年(1639年)に植えられた楠(上写真)は県の天然記念物に指定されている
(埼玉県本庄市千代田2丁目)
本庄・旧中山道
金さな神社を過ぎると、路は右に折れ、少し行くと左に入る
その路に旧中山道の日本橋〜京都までの宿駅名を書いたプレートが
歩道に埋められていた
これから、これらの宿駅を踏破するのかと思うとファイトの沸いてくる道であった
今回はこの先、JR高崎線の神保原駅まで行き、そこから帰京した
今回は両足に大きなマメを作り
その両方とも潰してしまった
まさに足を引きずるようにしてのゴールであった
(埼玉県本庄市小島1丁目)