神保原
上里町・陽雲寺
朝の8時半、JR高崎線の神保原駅より旧中山道歩きを再開した
今回で日本橋を出てから6日目の徒歩の旅である
旧中山道に入り暫く行くと、左側に武田信玄夫人の墓があることで知られた
陽雲寺(よううんじ)がある
陽雲寺と言う寺名は、武田信玄夫人の号、陽雲院からきている
晩年をここで暮らしていたという
寺の入口右手に金窪城主畑時能(ときよし)と家臣の児玉光信の墓がある
金窪城は南北朝時代、新田義貞が築城し、畑時能を城主とした
今は金窪城址公園となっている
(埼玉県児玉郡上里町金久保)
神流川
埼玉県上里町のはずれにあるのが神流川(かんながわ)である
50mほど上流の勅旨河原に旧中山道の渡船場があった
この川を渡ると、いよいよ上州(群馬県)の新町に入る
神流川橋を渡った辺りが神流川古戦場として知られたところだ
橋の袂に記念碑と説明板(写真下)が建っている
説明によると、信長が本能寺の変で亡くなった時
厩橋(うまやばし、現前橋)城で北関東一帯を押さえていた
織田の武将滝川一益は急遽上京しようとした
しかしそれを阻止しようとする後北条とここで衝突し
壮絶な戦いを繰り広げ大敗を喫した
滝川一益は、この時2670名の戦死者を出し厩橋に撤退したという
その時、一益の勢力下にあった金窪城も落された
なお、神流川古戦場跡一帯は、現在は陸上自衛隊駐屯地になっている
(埼玉県児玉郡上里町)
11新町
新町・諏訪神社
神流川を渡り、群馬県に入るとすぐ右側に八坂神社、そして写真の諏訪神社がある
諏訪神社は本殿の三方には
楠正成・正行、新田義貞、児島高徳の武者絵が彫刻(下写真)されている
八坂神社には一茶の句碑が立っている
昔は大きな茶屋があったという
ここで休憩していたら、大阪より歩いてきた人に声を掛けられた
60台後半の男性で、日本ウォーキング協会の正会員という
街道の情報交換をして、名刺交換をする
(群馬県高崎市新町)
新町宿・行在所公園
諏訪神社あたりから新町宿である
もともとは笛木村と落合村が合体して、元禄(1688−1704年)までは
新宿(しんしゅく)と言われていた
本陣2、脇本陣1、旅籠43軒であった
新町の中央に安在所(あんざいじょ)公園がある
公園の奥には、明治9年、明治天皇が北陸巡行の際に宿泊した平屋建の建物が残されている
(群馬県高崎市新町)
於菊稲荷
行在所公園の横の道を進むと於菊稲荷がある
新町宿で評判の飯盛女のお菊が、突然動けなくなった
普段からお稲荷さんを信仰していたので
境内に小屋を建てて養生させたところ元気に快復したという
それから於菊稲荷と呼ばれるようになったとか
(群馬県高崎市新町)
温井川
旧中仙道を進み、本陣、脇本陣跡のある新町宿を抜けると
烏川支流の温川の弁天橋に着く
橋の袂に「日本スリーデーマーチ発祥の地」の石碑がある
毎年7月にオランダで行われる「歩けオリンピック」と呼ばれる
世界最大の歩け歩け大会に1977年に日本人選手が初参加
そして、日本でもと言うことになり、1978年11月にここ新町で
第1回「歩け歩け全国大会・全日本スリーデーマーチ」が開催された
今は本拠地が埼玉県の東松山市に移されている
(群馬県高崎市新町)
立石新田・旧中山道
新町宿を抜けると、いかにも旧街道らしい家並みが続いている
この辺の地名は分かりにくい
ここは藤岡市で、前記の新町は高崎市から
藤岡市を挟んでの飛び地となっている
(群馬県藤岡市)
高崎伊勢崎自転車道
関越自動車道を潜ると
旧中山道は烏川の自然堤防の上となる
今は立派なサイクリングロード(高崎伊勢崎自転車道線)となっている
歩くのにも快適なコースであった
(群馬県藤岡市立石新田)
烏川・柳瀬橋
利根川支流の烏川(柳瀬川)をここで渡る
江戸時代は橋は無く、橋の下流(写真下)を船で渡っていた
烏川を渡ると、再び高崎市となる
(群馬県藤岡市中島)
岩 鼻
岩鼻町・観音寺
この観音寺の裏側一帯は幕府の岩鼻代官所(陣屋)のあったところである
高崎藩や厩橋藩の領地であったこともあったが、幕府直轄領となり
代官を常駐させた
明治になって一時、岩鼻県の県庁がここに置かれた
その後群馬県となり県庁は高崎に移されている
(群馬県高崎市岩鼻町)
12倉賀野
倉賀野・陸橋
岩鼻を抜け、国道17号線(現中山道)とJR高崎線、八高線の線路を渡ると
前方が次の宿場倉賀野である
(群馬県高崎市倉賀野町)
倉賀野の追分
JR高崎線の上を横断し、やく800m行くと
この倉賀野・下町の交差点となる
かつて、倉賀野の追分のあったところだ
右の道が中山道で、左の道は例幣使道(れいへいしみち、日光例幣使街道)である
角には、今でも当時の常夜灯や、阿弥陀堂、道標が残されている
例幣使道とは、家康の命日(4月18日)に行われる日光東照宮祭礼に
朝廷から派遣される勅使が通る道である
中山道を下った勅使はここで、左に折れ
今のJR両毛線に沿った道を通り、足利、栃木、今市を通り
日光に向かったところである
(群馬県高崎市倉賀野)
JR倉賀野駅前
次の信号を右に曲がるとJR倉賀野駅である
この辺からが、倉賀野宿の中心であった
本陣1、脇本陣2、旅籠32軒であった
(群馬県高崎市倉賀野町)
脇本陣跡
須賀喜太郎脇本陣跡である
連子格子の2階建ての建物は明治になってから建て替えられたもの
右側の門は江戸時代からのものとのこと
(群馬県高崎市倉賀野町)
倉賀野宿・高札場跡
代々問屋を勤めていた須賀長太郎家の前が
高札場であった
街道を挟んで、反対側には須賀庄兵衛脇本陣のあったところである
(群馬県高崎市倉賀野町)
倉賀野神社
倉賀野の総鎮守である飯玉大明神のあったところである
明治になって、近在の神社を合祀して倉賀野神社となった
神社の裏手は烏川の河岸である
烏川は、関東の大動脈である利根川の支流で
烏川の最上流の河岸場であった
倉賀野宿の問屋や本陣は、この河岸問屋を兼ねていた
西上州や信州・越後から江戸に向かう荷物の集積場として大いに発展してきたところである
上り船は、大名・旗本の蔵米を中心に、麦、たばこ、織物、木材が中心で
下り船は塩や干鰯、油、茶、砂糖等であったという
(群馬県高崎市倉賀野町)
安楽寺
さらに街道を進むと右側に安楽寺がある
ここが、倉賀野宿の上の木戸があったところだ
安楽寺の創建は、天平年間(729〜749年)という
倉賀野宿を出ると、次は高崎宿である
(群馬県高崎市倉賀野)
浅間山古墳
倉賀野宿を出て、すぐ左側に倉賀野・浅間山古墳がある
前述の安楽寺境内にも古墳(直径30mの円墳)が残されている
共に7世紀後半のものとか
この辺は古くから開けた土地であったようだ
(群馬県高崎市倉賀野町)
13高崎宿
高崎駅東口入口
上の写真は上越新幹線のガードの手前である
信号を右に曲がると高崎駅の東口となる
下の写真は、新幹線のガードを潜ったところである
道幅広くなっている
高崎市の中心部に通じる南大通りである
(群馬県高崎市和田町)
高崎駅西口
南大通の高崎の中心地である
次の信号を右に曲がると高崎駅西口
そして左側一帯は高崎城である
この辺から先が、高崎宿の中心であった
しかし、城下町であるので、本陣・脇本陣は無く、旅籠も15軒しかなかった
鍛冶町、連雀町、鞘町、紺屋町等々、城下町特有の町名の並んでいるところ
他藩の藩主は、この地に宿泊せず、手前の倉賀野宿か次の板鼻宿を利用した
(群馬県高崎市新町)
高崎城址公園
この辺は、もともとは赤坂と呼ばれ、鎌倉時代には和田となった
江戸時代になり、井伊直政が入部したとき高崎となった
高崎城のが出来たのは慶長三(1598年)であった
現在は高崎城址公園となっている
写真は三の丸の土居と外堀である
(群馬県高崎市鍛治町)
高崎城乾櫓
復元された高崎城乾櫓(いぬいやぐら)と移築された東門である
乾櫓(いぬいやぐら)とは亥(い)と戌(ぬい)との中間の方角(北西)にある櫓の意である
(群馬県高崎市)
巨木・タブノキ
高崎城乾櫓の前にある巨木タブノキ
俗名イヌグス、クスノキ科
樹齢260年とのこと
茎、葉は線香用、樹皮は薬用、草木染にも利用される有用木である
(群馬県高崎市倉宮元町)
北高崎駅前
高崎城・乾櫓より、旧中山道(南大通)に復帰し、市内の繁華街を抜け
次回に備え、JR信越本線北高崎駅まで足を伸ばした
ここより電車に乗り、高崎駅で高崎線に乗り換え帰宅した
☆ ☆
次回は板鼻、安中、松井田、坂本宿までを予定
武蔵路、上州路を踏破した自分への褒美として
途中磯部温泉に泊り、のんびりする予定
(群馬県高崎市大橋町)
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