悠々人の日本写真紀行へ移動します




旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 12

追分御代田21小田井宿22岩村田宿佐久平


作者 Hitosh



追 分


笑坂・浅間の焼け石



追分宿の分去れ(わかされ)より左の旧中山道を行く
緩やかな長い下り坂と途中に小公園があり
浅間山の噴火のときの焼け石が置いてあった

この辺は、追分笑坂上の別荘地として開発されている


(長野県軽井沢町追分)


千ヶ滝湯川用水温水路



軽井沢町追分と御代田(みよた)町との境目に
千ヶ滝湯川用水温水路がある

もともとは慶安三年(1650年)、柏木小石衛門が
開削した約16里の農業用水である
ただ、浅間山の山麓で、火山の軽石等が多く、漏水がひどく
何度も改良を繰り返したとのこと

漏水予防のために真綿を流したこともあるようだ
現在のものは戦後、約21kmにわたり改修したものだ

千ヶ滝、湯川は浅間山の中腹を水源としており
雪解け水や湧水が中心で、稲作には水温が低いため
水温上昇のために作られた施設が、この幅20m、長さ934mの人工の池である

見晴らしが良く、街道歩きの休憩所として良いところであるが
生憎、ベンチもトイレも無い

この用水の畔で、持参の銀マットを敷いて、休憩した
昼寝をしたくなるような陽気であった


(長野県軽井沢町追分)

御代田


御代田・旧中山道



千ヶ滝湯川用水温水路を過ぎると、御代田町である

この辺は、まさに背負い富士ではなく、背負い浅間で
前方には蓼科山がそびえる、快適な緩い下り坂となっている


(長野県御代田町)


御代田一里塚





旧街道の一里塚が原型を留めたまま残されている

ここの一里塚は街道より少し入ったところにあったため
道路工事等で壊されずに済んだとのこと

写真は、直径13m、高さ5mの西側(右側)の塚である


(長野県御代田町)


御代田町荒町・旧中山道



沓掛宿の標高が940mで、この辺で790mである
だいぶ下ってきた

今回の予定地岩村田での標高は700mである
そのだらだら坂をここまで下ってきたことになる


(長野県御代田町)

21小田井宿


小田井宿・下木戸





御代田町を抜けると佐久市小田井(おたい)に入る
中山道六十九次の21番目の宿場である

ここの町並みは良くく保存されており
町並みの半分は江戸時代のものとのこと

しかし宿場としては本陣1、脇本陣1、旅籠5軒の
小さいものであった


(長野県佐久市小田井)



小田井宿・本陣跡



小田井宿の本陣跡(安川家住宅)である
本陣の客室は当時のままという

皇女和宮や宮家、公家等の姫君や商家の娘が泊まることが多かったため
姫の宿(姫宿、ひめじゅく)ともいわれていたそうだ

前の追分宿は飯盛り女の多い、賑やかな宿場であり
次の岩村田は城下町で、本陣が無かった事にもよる

静かな佇まいの宿場であったようだ
その面影が今も残されている


(長野県佐久市小田井)



小田井宿問屋跡





上の写真は小田井宿の問屋(といや)跡で、下の写真は旧旅籠である

小田井宿には問屋が2ヶ所あり、そのひ一つの安川家のものだ
もう一つは、西側の尾台家である


(長野県中軽井沢町)



小田井宿上木戸



小田井宿は2町(220m)にわたる町並みが続いていた

そしてここが、小田井宿の上方木戸である
小田井宿の西の入り口であったところだ


(長野県佐久市小田井)


咬月ヶ原



小田井宿を抜けると、咬月ヶ原(こうげつがはら)である
今でも広い草地となって残されている

古い草原で、石仏等が沢山残されている
また近くに咬月古墳のあるところである

伝説によれば、用命天皇(586年)に咬月(こうげつ)と言う名の官女がいた
咎めを受けて、佐久郡のここ小田井の原に流されてきた

官女は馬が好きで、白馬を乗り回していたが
その白馬が天の龍馬で、空を駆け巡り
平尾山の頂上に立ち止まった

そこで、官女は「吾は唯人ではない 白山大権現だ」と
言って、岩の中に入ってしまった

その後、大権現となった官女は、たびたび馬でやってきて
この辺で輪乗り(庭乗りの一種)をしたところ
その部分の草が生えなくなったので
「咬月の輪」と呼ぶようになったとか


(長野県佐久市小田井)


リンゴ園・千手観世音





咬月ヶ原を抜けると、次は岩村田宿となる
その道中左手はリンゴ園であった

リンゴ園の外れに大きな千手観世音があった


(長野県佐久市岩村田)

22岩村田宿


住吉神社



千住観世音に続いて、岩村田の住吉神社が左側にある
ここが岩村田宿の北の入り口であった

境内の欅は、中に大きな空洞が出来ていたが
樹齢は400年とのこと

幹周8.2m、樹高15m


(長野県佐久市)


岩村田宿・龍雲寺






続いて、左側に龍雲寺がある
信玄が死亡したとき、その死を秘すために
ここに葬られたことで知られた寺である

龍雲寺は、当初は正和元年(1312年)に
大井氏が開いた曹洞宗の寺である

かつての大井庄で、その中心がここ岩村田であった

現在のものは、戦国期後期、武田信玄が佐久に進軍し
大井氏を破った後に再建されたものである


(長野県佐久市岩村田)


岩村田宿



岩村田宿の中心街である
今は、アーケード付きの商店街となっている

岩村田は、内藤氏15000石の城下町で、もともと本陣や脇本陣は無かった
旅籠もわずか8軒しかなかった

旧中山道は、このすぐ先の相生(あいおい)町の信号を
直角に右折する
町の中心街は意外と小さい

大きな商業施設は北側の上信越自動車道の
佐久インターチェンジ付近に集中している


(長野県佐久市岩村田)



岩村田・旧中山道



相生町の信号を右折し、JR小海(こうみ)線の踏切を渡ると
再び、旧中山道らしい町並みとなっている

なお、小海線は小諸と中央本線の小渕沢を結ぶ線で
八ヶ岳の麓を通っている

JRで日本最高地点の清里を通っている線として知られている


(長野県佐久市岩村田)


佐久平


佐久平(佐久盆地






県立の岩村田高校の横を抜けると
広大な佐久平(佐久盆地)が目に飛び込んできた

古代から水田地帯として開けたところで
かつては八条院領大井庄の中心地であった
当時の条理制の遺稿も残されているとか

今回はここで、旧中山道の徒歩の旅を中断して、
下の写真で遠く見えるJR佐久平駅に向かった

ここから駅まで、約1kmの道のりであった
霞んでいるが背後の山は浅間山である

そして、上の写真の背後の山は蓼科山と八ヶ岳連峰である


(長野県佐久市岩村田)



JR佐久平駅




夕刻、佐久平駅に着いた

ここから18:58発の新幹線で東京に戻った
東京駅着は20:20であった

今回の歩数は39714歩であった


(長野県佐久市岩村田)
0607/0609/1206

歩行略図

歩行距離 11.0km
(青線部を歩行)





前へ 中山道目次 次へ






悠々人の日本写真紀行

北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

作者 Hitosh