長久保
長久保・四泊
長久保宿を出ると、次は28番目の宿場和田宿である
上の写真は、長久保宿の方を振り返ったものである
下の写真は、これから向かう和田宿方面だ
この辺(下写真)の地名は四泊(よとまり)で、かつて一里塚があったという
ある高僧が、善光寺を目指して来て、ここで四泊目を
迎えたことから四泊となったという
ここから和田峠まではずっと上り坂となっている
気合を入れての出発となった
(長野県長和町長久保)
下和田
落合・依田川
旧中山道はここで大門川を渡り
その先は依田川沿いの道となっている
上の写真の鉄橋は現中山道のものだ
旧中山道は、川を挟んで反対側の道(下写真)となっている
(長野県長和町和田村)
下和田中組・集落
下和田村中組の集落である
この辺は、ずっと緩い上り坂となっている
(長野県長和町和田村)
28和田宿
上組・若宮八幡宮
上組を過ぎた左手にこんもりとした森(写真右手)がある
若宮八幡宮である
この写真は後ろを振り返って撮ったものだ
この写真の右手前に一里塚跡碑がある
境内には、石垣に囲まれて
戦国期の和田城主大井信定、正信親子の墓が建っている
武田信玄との戦いで一族が全滅し
ここに埋められたという
(長野県長和町和田村)
和田宿・町並
若宮八幡宮を過ぎると
まもなく和田宿と彫られた大きな石碑が建っている
和田宿の下木戸である
和田宿は本陣1、脇本陣2、旅籠28軒の宿場であった
和田峠を控え賑わった宿場で
その面影があちこちに残されているのは嬉しい
(長野県長和町和田村)
和田宿本陣
和田宿の本陣である
皇女和宮の宿泊予定であったため
幕府の拝借金で再建されたものという
国の史跡に指定されている
近くに黒曜石(こくようせき)資料館がある
和田峠一帯は、1、2万年前より全国でも最大規模の
黒曜石の産地であった
黒曜石を利用して尖頭器(槍の先端に付ける石器)や
小刀、石斧の材料として重宝されていた
(長野県長和町和田村)
和田宿・本亭旅館
芦田宿を朝7時半出発し
笠取峠を越え、長久保宿から和田峠のだらだら坂の
途中に和田宿がある
今夜はここの宿「和田本邸」に泊まった
「中山道和田宿 旅人御宿本亭」の看板が良い
連子窓越しに脇本陣が目の前に見えるところである
宿の建物は江戸時代(元庄屋)のものであるが
内装はアルミサッシで、畳の上には絨毯が敷いてあった
部屋の間仕切りの襖には
芭蕉と36人像が描かれていた
ここで催された句会の様子という
山菜を中心にした手の込んだ料理とビールが美味かった
(長野県長和町和田)
和田宿・高札場跡
和田宿の旅館を朝の7:30に出発
いよいよ街道一の難所和田峠超えである
和田宿のはずれに高札場跡が復元されていた(写真中央右)
(長野県長和町和田村)
和田峠
美ヶ原・扇峠入口
和田峠の途中の扇峠入口
ここより右に曲がると美ヶ原の扇峠である
美ヶ原の山麓を通り、松本へ抜ける道である
旧中山道はこの美ヶ原と蓼科山の間を抜けて
諏訪に向かっている街道である
和田峠の方(写真正面)はガスがかかっていた
(長野県長和町和田村)
和田峠・三十三体観音
やがて、旧街道は車道と離れ
登山道となる
その入口付近にあるのがこの三十三体観音である
難所の峠を越える人馬の無事を祈って祀ったものであろう
旧中山道沿いは至る所に、石像があった
歴史の重みを感じさせるところである
(長野県長和町和田村)
和田峠・接待小屋
難所・和田峠というが、道は快適なハイキングコースとして整備されている
その途中にあるのがこの接待茶屋である
江戸呉服商の豪商かせや与兵衛が1000両を幕府に寄付し
その利息で運営された施行所である
11月から3月まで、峠を越える旅人に粥と焚き火の馳走をしたという
さらに牛馬には、一年を通して桶一杯の煮麦を施行したとのこと
この接待小屋の横にある湧き水は冷たく美味しかった
(長野県長和町和田村)
和田峠・小日向一里塚
接待茶を過ぎ、さらに進むと、ところどころに石畳が残されていた
そして、小日向の一里塚である
江戸から52番目の一里塚と書いてあった
(長野県長和町和田村)
和田峠・古峠頂上
唐沢の一里塚を通ると、東餅屋に着く
東餅屋には当時5軒の茶屋があり、餅や茶を提供していた
東餅屋からさらに900m上ったところが和田峠の古峠(1531m)である
旧中山道で一番標高の高いところだ
ここから御嶽山や乗鞍岳が見えるというがあいにくガスがかかっていた
昼食を摂っていると、ハトがやってきた
木曾名所図会によると
「和田峠に至る。ここを鳩の峰と呼ぶ」
と紹介されているところだ
鳩の写っているところは犀の河原と呼ばれている
ここよりは、急峻な下り坂となっている
この坂を下ったところが諏訪湖湖畔の下諏訪宿である
約15kmの道のりである
(長野県長和町和田村)
0609/0610