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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 23

薮原・木曽川〜36宮ノ越宿


作者 Hitosh



木曽川


木祖村・薮原





木工の里、お六の櫛の里薮原を朝の7:30に出発した

ここからは木曽川沿いの道となる
狭い谷を、木曽川と現国道19号線(中山道)、JR中央本線と
旧中山道が肩を寄せ合うように並行しているところだ

なお藪原のある木祖村は
文字通り、木曽川源流の里となっている

正確に言うと、飛騨山脈の南部鉢盛山(2446m)を水源としている
ここから駿河湾までの流路227kmの雄大な流れである


(長野県木祖村薮原)



田洞門
・鷲鳥トンネル





この辺で、谷がさらに狭くなり、国道は吉田洞門、そしてJRはトンネル(鷲鳥)の中だ
旧中山道だけは、断崖の細い道となっている

そういえば、旧中山道を歩いていて、一度もトンネルの中を歩いたことが無かった
難所といわれた鳥居峠、塩尻峠、和田峠、望月の金山坂等は
皆、トンネルが出来ている


(長野県木祖村薮原)


36宮ノ越宿


巴ヶ淵







目の前を遮る様な山吹山(1090m)に沿って左に
迂回するようにして進むと巴ヶ淵と呼ばれているところに出る

木曽川が深く淀んでいるところだ(下の写真)

丁度、山吹山の足下という感じである
JRと国道はこの山吹山のトンネルを通っている

鉄橋はJR中央本線で
左手が山吹山トンネルである

説明板によると巴状に渦巻いていたので巴ヶ淵と
名づけられた由

また、木曽義仲の妾で
木曽の豪族中原兼藤お娘巴御前巴御前は
良くここで水浴をしていたとのこと

中の写真は巴橋という
この橋を渡った右側に

「山吹も 巴もいでて 田植えかな」の句碑がある

山吹も巴も、義仲の愛妾であった
芭蕉の弟子、森川許六の句だ

旧中山道は、この橋を渡り進んでいくことになる


(長野県木曽町日義村


日義村・徳音寺





橋を渡ると日義村徳音寺である

但し、寺の徳音寺はこの先、宮ノ越に移転してしまい
名前だけが地名として残されている

実にいい感じの道であった


(長野県木曽町日義村徳音寺)



徳音寺、木曽義仲・巴御前墓






街道右手の徳音寺である
徳音とは、義仲の法号「徳音院」から取ったものだ

義仲、母小枝御前、愛妾巴御前と
義仲と共に戦った樋口兼光、今井兼平の墓が建てられている

本堂の前の馬上の女は巴御前である

境内の宣公郷土館には
義仲の似顔絵と巴御前の長刀(なぎなた)が展示されている
なお宣公とは義仲の戒名の一部に使われている名である


(長野県長野県木曽町日義村宮ノ越


義仲館





徳音寺の前に義仲館が建てられている
ふるさと創生事業の一環として平成4年に建てられたもの

下の写真は、正面義仲館の正面にある
義仲・巴御前の鎧姿像である


(長野県長野県木曽町日義村宮ノ越


36宮ノ越宿・町並





義仲館を出て、木曽川を渡ると中山道36番目の宮ノ越宿である

本陣1、脇本陣2、旅籠21軒の宿場であった
木曽大工の出身者が多いところであった


(長野県長野県木曽町日義村宮ノ越



宮ノ越宿・本陣跡、御前水






宮の宿の本陣跡である
奥には本陣の土蔵や遺稿の一部が残されている
この2軒先には脇本陣があったという

下の写真は御膳水である
江戸時代に掘られた井戸で、近郷随一の名水ととして
利用されていたものだ

明治天皇が行幸の際、この井戸水を利用した茶を飲まれたことから
御膳水と呼ばれるようになった


(長野県長野県木曽町日義村宮ノ越



宮ノ腰宿・上方木戸





ゆるい坂を上り切ったところが
宮ノ越宿の上方出口(木戸)である

小さな峠を越えると
一本道が遠く続いていた

次の間の宿原野までは
約3kmの道程である


(長野県長野県木曽町日義村宮ノ越
0610/0611

歩行略図

歩行距離 7.9km
(青線部を歩行)





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作者 Hitosh