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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 27

十二兼〜41三留野宿〜南木曽


作者 Hitosh



十二兼


JR十二兼駅





塩尻で乗り換えて、中央本線の十二兼(じゅうにかね)駅に着いたのは
昼の12:10であった
これが東京を朝出発して、一番早い電車である

駅は無人駅で、駅前はすぐ木曽川であった

今回はここから旧中山道に復帰して
三留野(みどの)宿を経て、今夜の宿・妻籠宿に向かった


(長野県南木曽町十二兼)




木曽川・柿其渓谷





十二兼を出ると、木曽川は見事な渓谷となっている

下の写真は柿其(かきぞれ)橋より上流を撮影したものだ

この辺から次の三留野(みどの)宿の間が
実は木曾街道最大の難所であった

断崖の高いところに付けられた狭い道で
蔦の桟(かけはし)も多く
一歩足を踏み外すと木曽川に転落してしまう処であった

柏原益軒の「きそ路の記」や「木曾名所図会」にも
その険しさが記されているところである


(長野県南木曽町柿其)


41三留野宿

読書・木曽川




木曽路を歩いていて、ここがいよいよ木曽川との別れである
木曾谷の最南端になるところだ

写真は後ろを振り返って撮ったものだ
左より木曽川、国道、中央本線、そして旧中山道(撮影位置)と
なっている

今まで、木曽川に沿って歩いてきたが、ここで木曽川とも別れ
山間の道を三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠(まごめ)宿と歩くことになる

なお地名の読書は文字通り「よみかき」と読む
これは与川(よかわ)、三留野(みどの)、柿其(かきぞれ)の
3村が合併する時に
はじめの読みをとって「よみかき」としたとのこと


(長野県南木曽町読書)



41三留野宿・町並





木曽川と別れ、坂道(べに坂)を登ったところが41番目の宿場・三留野宿である
本陣1、脇本陣1、旅籠は32軒もあった

本陣と脇本陣跡には案内板があった
建物は明治14年の大火で消失したという


(長野県南木曽町


南木曽

南木曽集落、梨子沢橋



三留野宿を抜けると南木曽駅は近い
下の写真は梨子沢橋、そしてその先には蛇抜橋(じゃぬけはし)がある

この蛇抜けが気になり調べてみた
木曾谷に多い地名で、道が山津波で押し流され
蛇が通ったように寸断されてしまう状態を言うようだ


(長野県南木曽町


JR南木曽駅





右崖下に南木曽駅が見えてきた
南木曽は古代より木曾地区の物流の拠点であった

また、明治後期になってからは
読書発電所を始め、木曽川水系の
水力発電の基地となって賑わった

日本の電力王と言われた福沢桃助の活躍したところである
後に川上音二郎の妻となる「貞奴」との仲はよく知られている

福沢桃助により、木曽川に掛掛けられた全長247m、幅2.7mの吊橋、桃助橋が残されている
資材運搬用に掛けられたものだ
また、対岸には桃助の別荘を復元した福沢桃助記念館がある

この桃助に抵抗したのが
島崎藤村の次兄島崎広助である

木曽川を利用して生活していた木曾谷の住民の
利権を守るために立ち上がったのである

田畑の殆ど無い木曾谷の住人は
林業が中心であった
ダム建設に伴い、伐採した木を筏に組んで
木曽川に流すことが出来なくなってしまうからである

現在は、駅に隣接して巨大な貯木場が出来ている


(長野県大桑村須原)



園原先生記念碑




旧中山道左手、南木曽駅を真下に見下ろす崖の上に「園原先生碑」がある

元禄12年(1703年)、三留野の東山神社の神官の家に
生まれた園原旧富(ふるとみ)は
尾張・美濃に多くの門人を擁した神道学者である

「木曾古道記」や「木曾名物記」の著者としても知られている


(長野県南木曽町和合)



かぶと観音






南木曽の和合の集落を抜けるとかぶと観音堂に出る

木曾義仲が平家追討の兵を挙げ、妻籠城を築いたとき
鬼門にあたるこの地に建てたものである

名前の由来は、仏像の体内に
義仲の兜の八幡座(兜の一番上)の観音像を納めたことによるとか


旧中山道は、この境内を抜け、また快適な山道となる
次の妻籠宿までは約4kmの道程である


(長野県南木曽町
0612/0612


歩行略図

歩行距離 6.9km
(青線部を歩行





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作者 Hitosh