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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 30

馬籠城〜新茶屋〜十曲峠〜44落合宿


作者 Hitosh



馬籠


丸山坂・荒町集落







馬籠宿を出ると、快適な下り道となる
そして再度上り坂となるところが丸山坂で
荒町の集落のあるところだ

かつては、馬籠城(上写真の右側)のあったところである
丸山坂は別名城坂とも呼ばれていた

16世紀の中頃、木曾義昌が築城し
島崎重通が守っていた城である

小牧・長久手の戦の時
家康に攻められた守将の島崎重通は
妻籠城に逃れたため
馬籠は戦火から免れたとのこと

なお、この島崎重通が
島崎藤村の先祖にあたる由


荒町の集落を抜けると
前方が開け、豊かな濃尾平野が眼下に望める(下の写真)

ここに正岡子規の大きな句碑が立っていた
「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」
 まさに実感である

正面に見える山は笠置山(標高1128m)だ


(岐阜県中津川市荒町)



美濃路

是より美濃路



新茶屋である
ここがかつての木曽路の南の入口で、美濃と信濃の国境であった

島崎藤村の書という


(岐阜県中津川市新茶屋)



新茶屋一里塚





是より北・木曽路」の石碑の反対側に新茶屋の一里塚が残されている
側の石の標識には「信濃 美濃 国境」と刻まれている

ここは、かつて国境の立場として賑わっていた所である


(岐阜県中津川市新茶屋)



十曲峠・石畳





新茶屋の一里塚を過ぎると、見事な石畳が
約800mにわたり再現されている

十曲(じっきょく)峠とは、道が曲がりくねっているからとのこと
快適な坂道となっている


(岐阜県中津川市新茶屋)


医王寺



坂道を下って、石畳が途絶えたところにあるのがこの医王寺である

かつては山中薬師として知られたところである

ここの住職が傷ついた狐を助けたところ
そのお礼にと狐から教えられた「狐膏薬」がここの名物であった


(岐阜県中津川市山中)

44落合宿


落合宿遠望




医王寺を出ると、眼下に中山道44番目の宿場・落合宿が見えてきた


(岐阜県中津川市落合)



落合川・下桁橋



急な坂を下って行くと目の前に小さな橋があった

落合川に架かる下桁橋である

かつては猿橋と同じように
岸の両側から橋桁を少しずつ迫り出して繋いだ
橋脚の無い橋であった

この橋を渡ると落合宿に入る


(岐阜県中津川市落合)



落合宿高札場跡




下桁橋を渡り、坂道を登り返したところに
落合宿の高札場跡(写真右手)があった

右の県道中津川南木曽線を横断すると
落合宿である

この写真は後ろを振り返って撮ったものだ
赤い橋は中央自動車道の落合川橋である


(岐阜県中津川市落合)


落合宿・常夜灯




44番目の宿場落合宿の入口には、今でも常夜灯が残されていた
寛政4年(1792年)に作られた常夜灯とのこと


(岐阜県中津川市落合)



44落合宿・本陣





上は44番目の宿場・落合宿の町並みである

本陣1、脇本陣1、旅籠14軒の宿場であった

下の写真は本陣跡井口家で
文化12年(1815年)に再建されたもの


(岐阜県中津川市落合)



おがらん四社



宿場を抜けて、坂道を登っていくと
おがらん四社がある

おがらんとは「伽藍」から来ているとのこと

四社とは愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社が
ここに纏めてあるからとのこと

落合五郎は、木曾義仲の四天王の一人で、美濃口の押さえとして
この落合に館を構えていた由
その屋敷跡がここであると伝えられている


(岐阜県中津川市落合)

0612/0612


歩行略図

歩行距離 4.35km
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh