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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 36

琵琶峠〜48細久手宿


作者 Hitosh



琵琶峠


二ツ岩





大湫宿を出ると、右手に大きな石が2つある
二ツ岩上と呼ばれ、上の写真は母衣岩(ほろいわ)、下は烏帽子岩という

また、上を陰石、そして下を陽石とも言われた
高さは共に6mで幅は上が18mで下が9mである

この石のほかに、山の中には、なおいくつかの大石が見えた


(岐阜県瑞浪市大湫)




琵琶峠・石畳





琵琶峠の東の上り口である
ここから、石畳が残されている

現存する街道の石畳では落合宿の十曲峠、旧東海道の箱根よりも長く
日本一の長さとのこと

旧中山道が廃止されてから
使用されずにそのままの状態で放置されていた

その為、枯葉や土で埋まっていたのを
そっくり発掘することが出来たとのこと

大きな石を使用した歩きやすい立派な石畳であった


(岐阜県瑞浪市)



琵琶峠頂上





琵琶峠の頂上である

かつては見晴らしが良く、御嶽山、伊吹山、白山が見えたという
今は樹木で囲まれ見ることが出来ない

頂上には宝暦13年(1763年)建立の馬頭観音と和宮歌碑(上写真)
それに中山道琵琶峰、琵琶峠、琵琶坂と彫られた石碑(下写真)があった

和宮歌碑には
「住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび」
とある。京都を離れて江戸へ降嫁する姫は
この時、わずか16歳とのこと

その心境が良く伝わってくる歌である


(岐阜県瑞浪市)



八瀬沢の一里塚



琵琶峠を下る途中両側に当時のままの一里塚がある
八瀬澤の一里塚である

江戸から91里目(364km)の一里塚である


(岐阜県瑞浪市)



八瀬沢



琵琶峠を下ると八瀬沢(やせざわ)の集落に出る
石たたみも終わり、ここからは舗装路となる


(岐阜県瑞浪市日吉町)



弁財天の池



八瀬沢の弁財天池である
あの十辺舎一九の「続・膝栗毛 木曾街道」でも記されているところだ

「八瀬沢の弁財天を拝し、琵琶峠にさしかかりて 
やせ沢に 弁財天のある故か 霞ひくなる びわの山坂・・・」


(岐阜県瑞浪市大湫)


48細久手宿


奥之田・一里塚





さらに進むと奥之田の一里塚である
ここも往時のものがそのまま左右に残されている

瑞浪市にある4つの一里塚はすべて、残されている
市の保存の手が行き届いているのには感心した

この一里塚は江戸から92里目(368km)に当たる
大分、京都に近づいてきた


(岐阜県瑞浪市日吉町)


48細久手宿入口





細久手宿の東の入口である
ここに高札場があった

入口右手にある庚申堂は、当初寛政10年(1798年)に
建てられたが、宿場の大火で焼け、享和2年(1802年)に
再建されたものである


(岐阜県恵那市日吉町細久手)


48細久手宿







細久手宿である
最初の写真は細久手の公民館でトイレと共同駐車場があった

2番目の写真の石碑は本陣跡である

本陣1、脇本陣1、旅籠24軒
総家数65軒、人口256人であった

明治以降、段々に寂れ
今では人口180人、戸数51軒で江戸時代より減ってしまったとのこと

旧中山道が東海自然歩道に指定されてから
ここを訪れる人も増えてきたとのこと


(岐阜県瑞浪市日吉町細久手)



細久手宿・大黒屋







恵那のホテルを朝の6:30に出発した
そして十三峠(実際は20の峠)を上り下りして
47番目の宿場・大湫(おおくて)宿に到着したのが12:00であった

なお湫(くて)とは、低湿な土地の意味である

ここより、琵琶峠を越えて、山間(標高400m)にある
48番目の宿場・細久手(ほそくて)宿に
着いたのは3:30であった

こんなに早く、目的地に着いたのは始めてであった

今回の宿は江戸時代、尾州藩の定本陣であった
大黒屋である

この建物は安政5年(1858年)に建てられたもの
恵那から次の御嵩宿の間の旅館は山間(標高400m)の此処しかない

ここの料理は、評判どおりの良い味であった


(岐阜県瑞浪市日吉町細久手)
0701/0702



歩行略図

歩行距離 6.93km
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh