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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 43

岐阜城〜53河渡宿


作者 Hitosh



加納


岐阜公園





岐阜駅よりタクシーで約10分、岐阜公園に着いた

金華山の麓にある公園で
元斉藤道三や織田信長の居館のあったところである

上の写真の金華山山頂に岐阜城が見える
峻険な山の上である

NHK連続ドラマに因み
「山内一豊と千代婚礼の地」記念碑が建立されていた
曰く「長良川と一豊を愛した伴侶の鏡千代を讃える」とある


(岐阜県岐阜市金華山)



岐阜城







岐阜公園よりロープウェイで金華山を登った
思えば学生の時は、ここを歩いて登ったが
結構きつかった記憶がある

ロープウエィーだとわずか3分である

岐阜城は難攻不落の城として知られ
美濃を制するものは天下を制すといわれていた

関ヶ原の戦いの折、信長の孫織田秀信の時、東軍に攻められ落城
その後、廃城となる

天守閣と櫓は、加納城に移され
現在あるものは復元されたものである

天守閣からの360度の眺望は素晴らしかった

下の写真は、長良川下流方面で、旧中山道は
この川沿い左側(南側)を下る

そして、河渡(ごうど)の渡しで
川の反対側の54番目の宿場・河渡宿に入る

下の写真の一番左端し付近である


(岐阜県岐阜市金華山)



岐阜駅北口



岐阜公園よりバスで岐阜駅に戻った
右手が名鉄の岐阜駅前である

ここで下車した
今夜のホテルは、写真左手にあるホテルサンルート岐阜である

ホテルの1階にあるレストランで夕食を取った


(岐阜県岐阜市神田町)



加納・旧中山道



朝5時起床、朝食を済ませ、朝の6時にホテルを出発

旧中山道に復帰した
早朝のせいか、まだ人も車も殆ど無かった

今日の歩行予定は河渡宿、美江寺宿を経て、美濃赤坂宿(大垣市)までである


(岐阜県岐阜市加納本町)


長良川

鏡島・旧中山道



長良川の南側に隣接した鏡島である

岐阜街道との追分のあったところで
江戸時代から岐阜ちりめんの産地として知られていた

道沿いに右にカーブすると
長良川の大きな堤防が目に飛び込んできた


(岐阜県岐阜市鏡島)


長良川・河渡橋







上の写真は長良川土手から鏡島を振り返ったものである

右手の三角形の山が金華山で
その下を伸びている道が旧中山道である

かつては、ここで舟に乗って川を渡ったが
今は少し下流の河渡橋を渡って行くことになる

下の写真は、河渡橋より
右前方を見た写真である

今回の街道歩きで、初めて目にした伊吹山(1377m)の雄姿である
これからは、この伊吹山に向かって歩くことになる


(岐阜県岐阜市西鏡島)


53河渡宿


観音堂





長良川に架かる河渡橋を渡ると54番目の宿場・河渡宿である

入口には、この馬頭観音堂(愛染堂)が建っている
天保13年(1842年)、荷駄役人足が金を出し合って建てたものという

旧中山道は上の写真の車の走っている道の
右側の狭い道である


(岐阜県岐阜市河渡)



53河渡宿







河渡宿の町並みである
一帯は戦災で全焼し、かつての宿場町の面影は失われてしまった

江戸時代は、本陣1、脇本陣0、旅籠屋24軒もあった
川渡しがあったため賑わった宿場であった

2番目の写真は川渡一里塚跡である

奥の祠は松下神社跡(元の神社は空襲で焼失)で
江戸時代の代官松下内匠を祀った物だ

洪水に悩まされていた、この宿場を文化15年(1818年)に大改造した

宿場全体を、土で高く盛り上げ、その上に家屋を作ったという
写真の左の石碑は、その顕彰碑である


(岐阜県岐阜市河渡)


天王川・慶応橋





天王川を渡ると瑞穂(みずほ)市穂関町に入る

次は、55番目の宿場・美江寺(みえじ)である
ここから糸貫川までは、生津畷(なまづなわて)と呼ばれていた

沼地の多い低湿地帯で、かつては「膾村」とか「なます村」と書いていたという
今は生津である


(岐阜県瑞穂市穂関町生津)
0702/0703


歩行略図

歩行距離 6.54m
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh