56赤坂宿
中山道七回り半
平野井川を渡り、現在の大垣市に入る
辺り一帯は、広大な水田地帯である
その中を道が西に伸びている
写真左手にある石の標柱には「中山道七回り半」と彫られている
かつては、もっと道がくねくねと曲がっていたようであるが、現在はそれほどでも無い
カーブした道を抜けると、正面に近鉄養老線の東赤坂駅の踏切が見えてきた
(岐阜県大垣市三津屋町)
東赤坂駅
上の写真が、近鉄養老線の東赤坂駅である
無人駅で、駅舎も無い
2005年の11月8日の調査結果によると一日の利用客は489人であった
因みに養老線は桑名と揖斐を結ぶ全長57.5km、駅数27、全線単線の鉄道である
養老線の踏切を渡ると、旧中山道は左斜めの細い道となる(下の写真)
(岐阜県大垣市曽野)
杭瀬川
枝郷の集落を抜けると杭瀬(くいせ)川に架かる赤坂大橋となる
壬申の乱(672年)で矢傷を負った大海人皇子(後の天武天皇)が
ここの川水で傷を洗ったところ治ったという
それで「苦医瀬(くいせ)川」と呼ばれるようになったとか
(岐阜県大垣市赤坂町)
赤坂港跡
杭瀬川を渡ると中山道56番目の宿場・赤坂宿である
その入口にあるのが、この旧杭瀬川の赤坂港である
古代では京都への物質集散の港として栄えていた様だ
先ほどの杭瀬川が、かつてはここを流れていたのである
洪水で現在の杭瀬川に流路が変わり
今では、湧水が頼りの細い川となっている
それでも、明治になっても出入りする船は500隻にも上ったとのこと
近くの金生山(きんしょうざん)で採れる石灰の積み出しが多かったという
なお、この旧杭瀬川が、かつては揖斐川の本流であった由
今はその面影は全く無い
(岐阜県大垣市赤坂町)
56赤坂宿本陣跡
上の写真は赤坂宿の本陣跡である
本陣1、脇本陣1、旅籠屋17軒の宿場であった
今も、かつての面影が残された町並みである
(岐阜県大垣市赤坂町)
四ッ辻・たにくみ道道標
左に曲がると、JRの美濃赤坂駅となるところだ
その追分に、常夜灯付きの道標が残されている
「右たにくみ道」と彫られている
谷汲観音への道標で、天和2年(1682年)に建てられたものである
谷汲観音は、正しくは谷汲山華厳寺という
創建は1200年前とのこと
那智勝浦から始まる西国三十三観音巡りの
33番目の観音で、西国巡礼の満願の寺として有名であった
なお、この西国とは三重、奈良、大阪、兵庫、京都、滋賀、そしてこの美濃である
(岐阜県大垣市赤坂町)
赤坂宿町並み
道標の所を左折し、美濃赤坂駅に向かった
写真はその途中の家並み(矢橋家のもの)である
(岐阜県大垣市赤坂町)
JR美濃赤坂駅
JR東海道線の美濃赤坂駅で、駅員は居るが、駅窓口の無い駅である
東海道線と言っても、大垣と美濃赤坂を結ぶ支線(通称美濃赤坂支線)で
途中には荒尾駅があるのみの所謂盲腸線である
金生山の石灰を運び出す中継点ともなっていたが、今はトラック輸送に切り替わっている
今回は、ここで折り返し電車を約1時間半待った
そして、大垣、名古屋を経由し、新幹線で帰宅した
(岐阜県大垣市赤坂町)0702/0703