悠々人の日本写真紀行へ移動します




旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 47

追分〜57垂井宿〜桃配山


作者 Hitosh



57垂井宿


追分橋



梅谷川に架かる追分橋である
この橋の手前を左に曲がると大垣道(美濃路)で
古くからの道標が左手の道の角に残されている

中山道と東海道の宮宿を結ぶ古代よりの重要な道で
江戸時代は五街道に次ぐ扱いで、幕府の道中奉行の管轄下であった

旧中山道はこの橋を右に渡って行く


(岐阜県垂井町)



相川橋







追分橋を渡ると、直ぐこの相川に架かる相川橋となる
この橋を渡ると垂井宿となる

丁度桜が満開で、人で込んでいた
伊吹山を背にして、川を跨いだ多数の鯉幟が、見事であった


(岐阜県垂井町)


57垂井宿







桝形を通ると、中山道57番目の宿場・垂井宿の町並みである
上の写真の右の建物は、江戸時代から続く旅籠屋(旅館亀丸屋)で、今も営業している

中の写真は本陣のあった処で、左端に石柱と説明板が建っている
下の写真は、旧旅籠を利用して御休み処となっている

垂井宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋27軒であった


(岐阜県垂井町)



垂井の泉





宿場の真ん中十字路左手に大きな鳥居がある
南宮(なんぐう)大社の参道である
鳥居には、「正一位中山金山彦大神」と掲げられている
かつての美濃国の一宮である

是を潜って、少し入ったところ右側に垂井の泉がある
垂井の地名の由来となった泉だ

背後の寺院は玉泉禅寺である

十字路に戻り、反対側に行ったところが、府中で元美濃の国府のあった処である
垂井は西に関ヶ原を控え、交通の要衝でもあり
かつては美濃の中心であったところである


(岐阜県大垣市赤坂町)


本龍寺鐘楼



さらに進むと右手にあるのが本龍寺である
ここの門(写真左手)は、脇本陣の門をそのまま使用しているとのこと


(岐阜県垂井町)



垂井宿西見附





垂井宿の西見附跡である

垂井宿を出ると、次は58番目の宿場・関ヶ原宿である


(岐阜県垂井町)



垂井一里塚、日守の茶屋





垂井宿を抜け、しばらく歩くと左側に垂井の一里塚が残されている
その左にある建物は、日守の茶屋跡(下写真)である

この一里塚が当時のままと言う事で
国史跡に指定されている

なお、中山道では、この他に板橋宿の志村一里塚が
同じく国史跡に指定されている

ここを過ぎると、垂井町から関ヶ原町に入る


(岐阜県垂井町


伊富伎神社



美濃国の二の宮である伊富伎(いぶき)神社の鳥居である
社は、右手の東海道線の踏み切りの先である

伊富伎山(伊吹山)山麓に
勢力を張っていた伊福氏の祖先を祀っているとか


(岐阜県関ヶ原町)



一豊陣地跡・松並木





段々関ヶ原が近づいてきた
ここが、関ヶ原の戦いの時、家康の後詰をした山内一豊の陣地跡である

この辺は、まだ松並木が残されていた
左前方のこんもりした山が桃配山である(上の写真)


(岐阜県大垣市青墓町



桃配山




そして桃配り山である
関ヶ原の戦いで家康の本陣のあったところだ

見通しの利くところである
この時、光成は関ヶ原を挟んだ笹尾山であった

次はいよいよ関ヶ原である


(岐阜県関ヶ原町

0704/0705


歩行略図

歩行距離 6.02km
(青線部を歩行)




前へ 中山道(2)目次 次へ







悠々人の日本写真紀行

北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

作者 Hitosh