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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 54

高宮〜65愛知川


作者 Hitosh



彦根


法土町



高宮宿を出ると、あたり一面の田圃となる
実に気持ちの良い光景である


(滋賀県彦根市法土)


葛籠町・集落





やがて、中山道は葛籠(つづら)町の集落に入る
かつては葛篭細工が特産であった

なお葛篭とは、衣服を入れる籠で、アオツヅラの蔓(ツル)で作られていた

葛篭町を抜けると、彦根市とも別れ、豊郷町に入る
その境目に、彦根市のシンボルである、モニュメント(2枚目の写真)があった

標柱には「またおいでください」と彫られている
心憎い演出である


(滋賀県彦根市葛篭町)


豊郷町


四十九院の集落





豊郷(とよさと)町に入る
豊郷の最初の集落が四十九(しじゅうく)院である

僧行基が、天平3年(731年)にここに
四十九番目の寺院を建立したことによる由


(滋賀県豊郷町)



石畑一里塚



さらに進むと、八幡神社の横に石畑(いしばた)の一里塚跡がある

石畑は、かつて間の宿であった


(滋賀県豊郷町石畑)



近江の商家、伊藤長兵衛屋敷跡、伊藤忠兵衛記念館







伊藤長兵衛家屋敷跡(伊藤家本家)と彫られた大きな顕彰碑がある
一帯はくれなゐ(紅)園(2枚目写真)となっている

3枚目の写真は、伊藤忠兵衛の生家で、今は「伊藤忠兵衛」記念館となっている

丸紅、伊藤忠商事の創業者伊藤忠兵衛を
記念して、会社が作ったものである


(滋賀県豊郷町)



又十屋敷





又十は豪商藤野喜兵兵が、文政(1818〜1830年)の頃
北海道で漁業や廻船業を営んだときの商号である

その旧宅を、明治百年記念資料館と民芸展示館とし整備されている

右下の石碑には一里塚址と彫られている


(滋賀県豊郷町)



千樹寺



千樹寺は信長の兵火で焼失したのを、天昇14年(1586年)に再建されたが
再び火災に遭い焼失したとのこと

その後再建され、弘化3年(1846年)の遷仏供養のとき
一般民衆向けの音頭が作られたのが江州音頭の始まりとのこと

その発祥に地碑である


(滋賀県豊郷町)



宇曽川






宇曽川の歌詰(うたづめ)橋を渡ると
豊郷から愛荘(あいしょう)町愛知川(えちがわ)となる

この川は古くから舟運が盛んで「運槽川(うんそうがわ)」と呼ばれていたのが
中世に「うそ川」と訛り、宇曽川になったと、嘘みたいな話である

さらにもう一つ

天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門の討ち
京都に凱旋途中、この橋を渡ろうとした

その時、目を開いた将門の首が追いかけて来たので
秀郷は将門の首に対し、歌を一首所望すると
歌に詰まった将門の首が橋の上に落ちたという

以来、歌詰(うたづめ)橋と言うようになったとか


(滋賀県愛荘町愛知川)



65愛知川宿見附、高札場跡、問屋場跡







中山道65蕃目の宿場・愛知川である

2枚目の写真は愛知川宿高札場跡(八幡神社入口)である
その隣の旧家は中田家住宅である
その先に脇本陣があったいう

3枚目は問屋場跡(写真左端石柱)である

愛知川は近江上布の産地として知られたところだ

本陣1、脇本陣1、旅籠屋28軒であった


滋賀県愛荘町愛知川)


旧旅籠屋





昔の旅籠竹の子屋で、創業は宝暦8年(1758年)とのこと
明治天皇が北陸道東山道巡幸の時ここで休憩された

今は料亭竹平楼となっている


(滋賀県愛荘町愛知川


不飲橋・京方見附



不飲(のまず)川に架かる不飲橋が愛知川宿の京方見附である

この不飲川は、伝承によると、この川の源流である不飲池で激戦があり
川が血で真っ赤になったという

それ以来、忌み嫌ってこの川の水を飲まなくなったから「不飲」川となった由

愛知川宿を抜けると、次は66番目の宿場・武佐宿である
約10kmの道のりである


(滋賀県愛荘町愛知川

0704/0706


歩行略図

歩行距離 8.34km
(青線部を歩行)






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作者 Hitosh