城下町・川越
Kawagoe


松江町
  喜多院の参拝後、城下町・川越に向かう。その途中松江町にあるのが、この鰻の老舗「いちのや」である。天保3年(1832年)から続いているという。川越は昔から、近くで獲れる鰻や川魚(鯉やどじょう等)料理が名物であった。
  なお、鰻は「う」の字が長いからでは無く、鰻の胸が黄色く見えることから「胸黄(むなぎ)」が「うなぎ」に転訛したとのことであった。ついでに蒲焼は、鰻を串に刺して丸焼きにしていたのが蒲の穂に似ていたからとのこと。閑話休題。
連雀町、中央通商店街
  連雀町の交差点に入ると古くからの背の低い店が連なっている。中央通商店街である。
  写真は、右から鰹節(花かつお)の製造販売で知られた轟屋、そして靴・履物の他、民芸品、時代布はぎれや書画骨董まで扱っている山瀬屋と続いている。  
連馨寺
  連雀交差点を右折すると左側に連馨(れんけい)寺がある。天文15年(1546年)の有名な河越夜戦の後に河越城の城主となった大道寺政繁が、亡くなった母・蓮馨尼のために浄土宗の僧・感誉を招いて開山した寺である。
  川越夜戦は、桶狭間の戦い、屋島の戦いと共に日本三大奇襲の一つと言われている戦いだ。  
  室町時代後期、関東の覇権を巡り、北条家の支城である河越城を上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏の連合軍7万の大軍が包囲した時、本城の小田原から来援した北条氏康がわずか8000の兵で打ち破った戦である。
  策を弄して、10倍の敵に勝利したことから有名になった様だ。

連馨寺呑龍堂
  呑龍堂は大正初期の建築で、呑龍上人の像が安置されている。子育ての呑龍様として親しまれている。
仲町交差点
  連馨寺を出て直ぐのところが仲町交差点である。この交差点から幸町、元町、そして北側の「札の辻」辺りまでが、特に蔵造りの建物が多く残されているところだ。この通りは一番街通りと呼ばれている。
  川越の蔵は、磐城墨を混ぜて黒くし、その上を木賊(とくさ)で磨き上げた黒壁が特徴となっているので、実に重厚な町並みとなっている。現在でも、30数軒が残されているから圧巻である。
  なお木賊とは、トクサ科の常緑シダで、茎にケイ酸を含み硬く、物を砥ぎ磨くのに古くから用いられていたものだ。  
幸町、亀屋
  黒壁の見事な亀屋である。旧川越藩御用達で天明3年(1783年)の創業とのこと。和菓子専門店で、川越名物の芋羊羹や最中が古くからの売りのようだ。現在の当主は8代目とのことである。
  なお、川越といえばさつまいも。「九里四里(栗より)うまい十三里」という口上でも有名であった。
  さつまいもは栗(九里)に近い味と言う事で八里半とも呼ばれていたのを、いや栗(九里)より(四里)美味いと洒落て、足して十三里と言うようになったとか。  
  昔のさつまいもは江戸時代の大ヒット商品である焼き芋や、蒸かし芋、煮いもがメインであったが、今はいろいろと工夫され、見ていて飽きないほど多彩な食べ物となっている。

埼玉りそな銀行
  左の建物は「甘み茶房かすが」である。明治26年に建てられた蔵を改築した店で、総て自家製で、特にオリジナル芋料理が自慢とか。
  右の洋館が埼玉りそな銀行川越支店である。旧第八十五現行の本店で、川越における洋風建築の代表格の一つで大正7年に建てられたもので、国の登録有形文化財に指定されている。
幸町、陶舗
  「陶舗やまわ」は明治26年に建てられた黒壁の店蔵で、陶器の販売の他、地元陶芸作家の作品も展示している。店の中の一画には陶路子(とろっこ)と称する甘味処もあった。
  予約をすれば、川越名産のさつまいもミニ懐石料理も楽しめるとのこと。地元商店街の活性化に、各店が芋料理のアイデアを出しあっているようだ。
  店の前に、観光用の人力車も置いてあった。
かねつき通り
  鐘つき通りは、すっかり川越名物となった「時の鐘」の前の小路である。
  時の鐘は、高さが16m、檜造りの古風な鐘楼である。承応2年(1653年)、川越城主であった松平信綱により建てられたものである。しかし大火で消失したため、現在のものは、明治に復元されたもので、電動式となっている。
  手前の黒壁の重厚な店は酒屋である。この辺一帯は黒壁の重厚な店蔵が列を成しているところである。
時の鐘
  この「時の鐘」を建てた松平信綱は智恵伊豆と呼ばれていた人だ。
  川越は武蔵野台地の北端で入間川と荒川の低地(氾濫源)に囲まれている所にある。川越城は江戸の北方の重要な守りとして、酒井重忠や、松平信綱、堀田正盛、柳沢吉保等の名だたる重臣や譜代が城主となっていた。
  また、川越は古くから上州と鎌倉を結ぶ要衝の地でもあった。昔は川肥であったが、平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵武士の一党河越氏が台頭し、河越と呼ばれるようになった。
  なお、太田道潅の父道真が長禄元年(1457年)に築城したのが川越城の始まりである。  
蔵造の家並み
  江戸時代となり、川越は川越街道と新河岸川によって江戸と結ばれ、城下町として近隣の市場町として、小江戸と呼ばれるほどに繁盛してきた。
  なお、川越街道は、中山道の板橋宿の先で分岐する脇往還で、白子(和光市)、膝折(朝霞市)、大和田、大井宿を経て川越に入る全長10里(約40km)6宿の街道で、人と荷物の往来の多い街道であった。
養寿院
  寛元2年(1244年)に川越太郎重頼の曾孫に当たる経重が開基した寺。川越太郎や家老岩田彦助等の墓が残されている由。
  河越太郎は、頼朝の命で娘(郷御前)を義経の正妻としたことで知られている。しかし、後年義経に絡み、頼朝より誅殺された悲劇の人でもあったようだ。
菓子屋横町
  養寿院の傍の菓子屋横町。昔懐かしい菓子屋・駄菓子屋が並ぶ横町である。
  明治の始めに、養寿院の門前町として賑わうこの町で、鈴木藤左衛門が、江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したのが始まりで、昭和初期には70軒以上の店が出来ていた。しかし、今は生活が変わり店も激減したが、それでも22軒の店が並んでいる。
  平成13年に「かおり風景100選」に選ばれたとのこと。
幸町、一番街
  再び、店蔵の並ぶ一番街に出て駅に向かう。冬の短い日が翳り、人通りも少なくなった。
  今回は今年最後の撮影会と言う事で、本川越駅近くの小料理屋で、忘年会を兼ねた打上げを行った。



ルート

西武新宿線 本川越駅下車

徒歩 2時間


駐車場

土日祝日のみ 市役所
喜多院駐車場、他

トイレ



 

(埼玉県川越市)
0312/0901






悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版

戻 る 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

Hitosh