佐原・小野川
Sawara、Onogawa

小野川河畔   
  佐原市の中心部は利根川に面している。古くから利根川水運で栄えた町である。佐原の地名は、この利根川の堆積地を示す、砂原からきているという。
    下総台地の北部にあたり、その北部は利根川流域の低湿地帯となっている。さらに北側には水郷として知られた潮来がある。
  この利根川に垂直に交わっている川が小野川で、佐原市の中心部を流れ、川の両岸には古くから商家が軒をならべ、今でもその景観が残されている。
  歴史的には、古代は市内にある鹿取神宮が大和朝廷の東国支配の拠点となり、中世は千葉氏、その後は一族の国分氏が、この小野川沿いの上流部に城郭を構えていた。
  江戸時代は、幕府直轄領であったところだ。 
  佐原は、利根川水運の中継地、また周辺の農産物の集散地として大正期まで繁栄したところで、醸造業も発展した。
  その後、成田鉄道(現在のJR成田線)が開通し、また陸路が発達するにつれ、急速に衰退した町でもある。水運で栄えた町の宿命でもあった。
蕎麦屋(小堀屋本店)
  江戸時代より続いた佐原名物の蕎麦屋(小堀屋本店、県有形文化財)と言う事で入ってみた。
  天明2年(1782年)創業の老舗で、昆布を練りこんだ「黒切りそば」が看板メニュであった。値段は高かった(黒天もりが1400円)が、味は流石に伝統を感じさせてくれるもので、美味かった。
  なお、現在の建物は火災で焼失したため、明治23年に建て替えられたもの。
伊能忠敬旧宅前の出し
  船着場に下る石段は「出し(だし)」と呼ばれている。今でも観光用の船が運航されている。
  出しを登ったところの家が、伊能忠敬の旧宅である。伊能家は、代々の地主で、米穀商、醸造業を営んでいた。この伊能家に、18歳の時、忠敬は婿養子に入った。
  家運が不幸続きで、大変ではあったが、何とか盛り返し財を成した後、50歳(1794年)で家業を長男の景啓に譲り隠居して、江戸で自分より18歳も年下の幕府天文方高橋至時(よしとき)に弟子入りし、天文学や測量を学んだと言う。
  その後は、日本全国を測量のため歩き、正確な日本地図を作り上げた。全国の海岸線と主な街道を測量した距離は43,000kmといい、日数は3,700日に及んだという。もう、唯、頭が下がるのみという感じである。
  忠敬の50歳を境に、全く異なった分野での活躍を十二分に果たしたその生き様は、正に一人で二人分を生きたことになる。
  「一身にして二生を経る」であり、現在の高齢化社会を生きる手本でもある。他界したのは、文政元年(1818年)74歳であった。  
  「大日本沿海與地図(よちず)」のまとめは未完成であったが、3年後に友人や、門弟、幕府天文方によって、「大日本沿海與地全図(伊能図)」として完成された。
  なお、完成までの3年間は、伊能忠敬の死は伏せられていた由。
  私も定年退職し、今までの経験と僅かな貯えを活かし、これからの貴重な第二の人生を、何か人のため、少しでもお役に立てらればと思う今日この頃である。
醸造所
  伊能忠敬旧宅を見学した後、佐原市内を歩いてみた。馬場酒造、佐原酒造、東薫酒造等の醸造所の前を通り、佐原公園(諏訪公園)に向かった。
  写真の東薫(とうくん)酒造は、創業170年を超える造り酒屋で、佐原の地酒「東薫」で知られているところだ。
佐原市街
  桜の名所として知られる佐原公園(諏訪公園、諏訪神社)の見晴台よりの眺望である。佐原市街の先を流れている川が利根川、常陸利根川である。その先が潮来だ。
  この後、佐原駅まで歩いて行き、JR成田線で帰京した。


ルート

東関東自動車道 佐原IC

又はJR佐原駅 下車
〜小野川河畔〜小堀屋本店、正文堂
〜伊能忠敬旧宅〜伊能忠敬記念館
〜酒造所〜佐原公園、諏訪神社
〜伊能忠敬像〜佐原駅

散策 3時間

駐車場

伊能忠敬記念館 有料
佐原公園 無料

休憩所

佐原公園内 有


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悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版
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