鹿島神宮参道 霞ヶ浦を車で一周の途中に鹿島神宮に立ち寄った。霞ヶ浦の東端の常陸利根川に架かる北利根橋を渡り、国道51号線を右折し、潮来を経て北浦の神宮橋を渡ると鹿嶋市に入る。 鹿嶋市は東は太平洋の鹿島灘に面する海岸砂丘、西は北浦に面した湖岸低地と周囲が水域に囲まれた細長い地域である。 その中心にあるのが常陸国一ノ宮の鹿島神宮である。古くからの多くの尊信を集めた東国の大社で、常陸風土記にも記されている。鹿嶋はこの神宮の宮前町として発展してきた町である。 |
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鹿島神宮大鳥居 広い参道を歩くと、目の前に大きな鳥居がある。鹿島神宮の大鳥居である。 鹿島神宮の祭神は武甕槌(たけみかづち)大神で、神武天皇の大和国入国の守護、蝦夷に対する大和朝廷の兵站基地であったことから武神として崇敬されてきた。 また奈良時代には、九州防備に赴く東国の防人(さきもり)たちが、ここで武運長久の祈願をjして出立した。是を鹿島立ちと言った。 その後、皇室や藤原氏、源頼朝などの武家の崇敬を集め、江戸時代には幕府の庇護のもとに多くの参詣者で賑わった。 |
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楼門 この朱塗りの楼門は水戸初代藩主である徳川頼房が寄進(1642年)したもので、国の重要文化財に指定されている。 この右手に鹿島神宮の宝物館がある。常陸国風土記によると、704年に常陸の国司らが若松浜(現在の国末浜辺り)で砂鉄を取って刀を作らせたとある。この刀が鹿島神宮の神宝となっている直刀で韴霊(ふつのみたま)の剣と言われ、国宝に指定されている。 この直刀や源頼朝が寄進した梅竹蒔絵鞍(うめたけまきえくら)、名刀「景安」等が宝物館に陳列されている。 |
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拝殿・本殿 拝殿と本殿である。二代将軍徳川秀忠の奉納した入母屋造りの拝殿と三間社流造(さんげんしゃながれつくり)の本殿は国の重要文化財に指定されている。 鹿島と言う地名は、神島とも表記され、全国的に分布している。手元の地名地図事典でも16ヶ所もあった。共通するのは、海辺に近く、海と陸地の接点あるいは境界領域に位置している地域である。 陸地のさいはての地点、あるいは最先端の場所として意識されているようだ。したがってここ鹿島も、畿内の大和朝廷から見ると、東国のはて(涯)と見なされていたようだ。 |
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鹿島神宮の森 また鹿島と言うと、戦国時代の剣聖とまで言われた塚原卜伝(1489~1571年)がいる。小さいとき講談本を夢中で読んだことがある。卜伝は 鹿島神宮に奉仕する卜部(うらべ)職吉川家の次男で、神宮で剣術の極意を悟り、鹿島新当流の祖となった剣術家である。 鹿島神宮の森(杜)は県の天然記念物に指定されている。80haに及ぶ神域は、県内では珍しく常緑照葉樹林で、神宮の歴史と共に生育してきたものだ。植物の種類は約800種もあるという。 この奥にある奥宮は徳川家康が関ヶ原の戦勝を記念して奉納したもので、やはり国の重要文化財に指定されている |
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鹿島神宮の森 また、この森の中には謡曲でも知られた要石(かなめいし)がある。鹿島の神が宿る御坐(みざ)の石という。 これら由緒のある神宮の町も、最近では鹿島浦の砂丘を掘り分けて人口港湾を造り鹿島港を整備し、住友金属工業の鹿島製鉄所が作られ、近代的な鉄鋼コンビナートとなり、鉄の町として知られるようになった。 さらにこの住友金属工業のサッカー部が鹿島アントラーズとして活躍したことにより、鹿島の町は、知名度でもすっかり全国区となっている。 |
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ルート JR常磐線 土浦駅下車 レンタカー利用 土浦~阿見町~美浦村湖岸 ~浮島・和田岬~潮来~北浦~鹿島神宮 またはJR鹿島線鹿島神宮駅より徒歩7分 |
休憩所・駐車場 参道及び鹿島神宮境内 メ モ なお鹿嶋市の表記は 佐賀県鹿島市の反対で認可が下りず 歴史的名称の嶋となっている |
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