小田原城址
Odawara


小田原城隅櫓と学橋
   小田原駅の東口を降り、正面の道を10分ほど歩くと、小田原城址公園に着く。
  小田原城は、戦国時代、日本最大の城域面積を持つ巨大城郭であった。位置的には、関東平野の西南端にあり、箱根と酒匂川に挟まれた所の台地(箱根外輪山山麓)にある。
  もともとは静岡県の駿東より南下してきた大森氏の居城で、当時より難攻不落の城と言われていたが、北条早雲(伊勢新九朗)の奇襲によりあっけなく乗っ取られた経緯がある。  

隅櫓橋
   当時の小田原城主は名将と言われていた大森氏頼(うじより)で、早雲は手を出せずにいた。その氏頼が明応3年(1494)に病没、後を継いだのが子の大森藤頼(ふじより)であった。
   この藤頼が凡庸であったため、チャンス到来とばかりに策を弄した。
   その策とは、伊豆の鹿(牛との説もある)が箱根山中に逃げ込んだので、勢子(せこ)を領内に入れさせて欲しいと藤頼に頼み込み了解を得た。
   ところが、この勢子は早雲の軍勢が変装したもので、無警戒の小田原城を奇襲し、あっという間に乗っ取ってしまった。  

銅門(二の丸の表門)と住吉橋
   以後、早雲の子、氏家が小田原城主となり、相模原全土掌握の橋頭堡とした。そして、後北条氏の関東制覇のための拠点となった城だ。
   上杉謙信と武田信玄による2度の小田原城の包囲にも耐えてきた。特に謙信の軍勢は9万と称されていた。そして6ヶ月も包囲されたが落城せず、已む無く上杉勢は撤退していった。
   ますます小田原城は難攻不落の城として知られるようになった。そして、運命の天正18年、豊臣秀吉の大軍が押し寄せてきたのである。
   その時には、当時の日本では珍しく、城下町までを城の中に取り込んでおり、いわゆる長期篭城にも耐えられる仕組みとなっていた。堀と土塁で出来た城の外郭線は総延長3里(約12km)もあったという。まさに、当時の日本最大の城郭であった。
   従って、秀吉が攻めてきたときも、悠然と構え、城内では、町民は何の動揺も無く、祭礼などを行っていたとのこと。また備蓄も優に1年分はあったという。
   これが、後で有名となった「小田原評定」の背景である。    

常盤木門
   ところが秀吉は、稀有の化け物とも言えるように、20万石の米と22万人の大軍で、1年でも2年でも長期包囲が出来る体制で臨み、さらに小田原城の目と鼻の先にある石垣山に、一夜城として知られる対城を築いた。
   そして包囲した後、北条の支城を攻め滅ぼし、小田原城を孤立無援の裸城にした。
   流石の北条も、今回は戦意を失い、城主の北条氏直が降伏し開城となった。小田原城の攻防は結果としてわずか3ヶ月で終わった。
   徳川時代になると、江戸城が主城となり、この巨大な城郭は戦略的に必要がなくなり、10分の1程度の規模に縮小され、明治維新を迎えた。
   この経緯にもいろいろとドラマがあり、記述すると切りが無いので割愛する。因みに城主は大久保忠世、忠隣(ただちか、謀反の疑いで改易)親子、安部氏、稲葉氏、そして再び大久保氏の居城となった。
   なお、小田原名物の提灯、ういろう(菓子)、蒲鉾、梅干等の保存食は箱根越えの必需品として発展したもの。     

天守閣
   現在の天守閣や門などの建造物はすべて、昭和35年以降に再建されたもの。天守閣は資料館となり、その他、郷土文化館、歴史見聞館、図書館、などのほか、小学校や高校などが城内に作られている。小動物園まであるのには驚いた。
    さらに、小田原生まれの二宮尊徳を祀った報徳二宮神社と、報徳博物館もある。 

市天然記念物
   小田原城址には、建造物は地震や明治維新で殆どの建造部は破壊されたが、樹木類は多く残されているのが救いである。
   小田原城址の桜は有名で、さらに市の天然記念物に指定されている「イヌマキ」は樹齢400年で、秀吉が小田原を攻めた頃のもの。そのほか、「ビャクシン」、「御感の藤」などが知られている。
   今でも、広い城跡内を歩くと、大松や欅、椋の木を始め、到る所で古木、巨木を目にする事が出来る。



ルート

 
JR東海道線 小田原
〜歩10分 小田原城址公園
〜銅門〜常盤木門
〜天守閣

歩行 2時間

休憩所・駐車場

駐車場 小田原城 有料

トイレ・休憩所 あり

0402/0408

悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版
Part 1
戻 る 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

Hitosh