三浦富士山麓 京浜急行の津久井浜で下車し、津久井浜高校の前、警察犬訓練所の横を通り、三浦富士に向かった。左の写真はその山麓(武山方面)で撮ったものだ。 山麓と言うよりは三浦台地(隆起海食台地)と呼ぶほうが正しいのだろう。温暖な気候に恵まれ、台地上は園芸農業が盛んなところである。ここは一面かぼちゃ畑であった。 さらに上に行くとみかん畑である。下に行くと、三浦大根や、キャベツ、スイカの産地として知られたところである。 |
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三浦富士山頂 駅より、約1時間で三浦富士の山頂(183m)に着く。写真は頂上にある祠の裏手である。僅かな展望を楽しみながら中年の夫婦が昼食を取っていた。 我々も、ここの祠の前で持参した、氷が殆ど溶けて飲み頃になったビール(自宅で半冷凍したビールを保冷箱に入れ持参)で休憩した。至福の時である。 なお、ここは三浦富士と呼ばれてはいるが、正式名は富士山(ふじやま)なのである。今でも山頂にはちゃんと、浅間神社が祀られ、本家の富士山と同じ7月の1日には、富士講の行者達によって山開きが行われている。 |
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砲台山電波塔 三浦富士より尾根道を30分ほど歩くと、この砲台山(206m)に着く。頂上には、電波塔と、砲台跡があるだけで周囲は木に覆われ、見晴らしは得られない。 第2次世界大戦のとき、ここに砲台(高射砲)が築かれ、砲台山と呼ばれるようになった。 |
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砲台跡 三浦半島の横須賀は、幕府がフランスの協力を得て、大規模な製鉄所を造ったところで、さらに明治維新後はここを軍港として、海軍の増強を図った所(現在は米軍の軍港)である。 そのため、太平洋戦争の時、三浦半島全体が要塞として防備が固められた。その一つがこの砲台跡である。しかし、砲台山とも、砲台跡とも説明は一切無かった。太平洋戦争時代の遺物に対しては、どこの自治体も冷たい様である。 |
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武山山頂 砲台山から尾根道をゆっくりとさらに30分程歩くと、武山山頂(200m)に着く。山頂にはツツジ園に囲まれた展望台、そして武山不動として知られた浄土宗の龍塚山(りゅうちょうざん)持経寺(じきょうじ)がある。 文禄3年(1594年)、奈良東大寺の僧萬努(まんむ)が、この地に立ち寄り、高さ3尺9寸(117cm)の不動尊を彫り、本尊としたのが始まりという。 当初は山麓にあったが、天和3年(1683年)にこの頂上に移されたという。 |
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武山不動 武山不動は別名「浪切(なみきり)不動」とも呼ばれ、地元の漁師や、船頭、回船問屋などの信仰が厚かった。海上安全や豊漁に霊験あらたかとか。 三浦富士から武山の稜線は、海上からも良く見みえたため、江戸時代には、浦賀水道に入る目印ともなっており、漁師の漁場位置確認のための目安ともなっていた。 |
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武山山頂見晴台より城ヶ島方面 海上からの目印になっているくらいであるから、山頂からの見晴らしは素晴らしかった。展望台からは、それこそ360度の眺望が得られるところである。 写真は、城ヶ島方面を見た写真である。下の樹木はみかんの木である。 武山(ピークは砲台山)は三浦半島では3番目に高い山である。参考までに、1位は大楠山で標高241m、2位は二子山(207.8m)である。これから、順次紹介したいと思っている。 |
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武山山頂より横須賀方面 展望台より反対側を見た写真である。三浦半島の山々は標高が低いせいもあるが、何より都心より近いため、どこも直ぐ下まで民家が迫っている。特に京急線が先端の三崎口まで開通するようになってから顕著と成っている様だ。 |
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武山南登山道 それだけ、三浦半島の山はどちらに下山しても安全である。普通は、武山より西に下りバスを利用するが、今回はバスを敬遠して、少し遠回りではあるが南側の道を下り、京急の津久井浜駅を目指した。 この道は予想に反し、素晴らしい山道であった。ハイキング気分の出るところであった。 |
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武山山麓 20分も下ると、舗装した道にでる。金田湾、浦賀水道が良く見えるところである。山麓をやや下ったところに津久井浜観光農園がある。 今回は、山麓の寺、円乗院に立ち寄り、その後京急の津久井浜駅に向かった。山頂から駅までは約1時間の道程であった。 |
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ルート 京浜急行 津久井浜駅 〜津久井浜高校〜警察犬訓練所 〜三浦富士 〜見張し台〜砲台山 〜武山 武山不動、見晴台 〜津久井浜観光農園〜円乗院 〜津久井浜駅 歩行 3.5時間 |
休憩所・駐車場 駐車場 無し 三浦海岸には有(有料) 休憩所 見晴台、武山にあり 売店 無し トイレ 武山山頂のみ |
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