行田・忍城
Gyouta、Oshi Zyou

水城公園、しのぶ池
   久しぶりに訪れた。子供が小学校の頃であるから20年は経っている。当時と比べると、庭園が整備されたくらいで、他は殆ど変わっていない感じで懐かしかった。
  広く平らな地に広い沼と、この辺がかつては水郷と言われただけの風情を残している。このしのぶ池と名付けられた所は、忍城の外堀として利用されていた自然の沼(忍沼)のほんの一部である。
  その殆どが埋め立てられ、市役所や小学校、中学校になっている。  
日本庭園
  行田の語源は、川や沼が田になった意味で、もとは「なりた(成田)」とも呼ばれていた。最初にこの地に城を築いたのは、1491年の下総守成田親泰(なりたちかやす)であったから、その成田の方が語源かもわからない。
  行田は、利根川と元荒川に挟まれた荒川扇状地の上にある市で、名称は旧忍城の城下町の行田地区から取った由。明治22年に、当時の成田町、行田町、佐間町とその周辺が合併し忍(おし)町となり、昭和24年の市制施行で行田市となった。   
  行田で有名な足袋は、江戸中期より盛んに生産されていた。1765年(明和2年)の道中案内にも「忍のさし足袋、名産なり」と記されている。
  それまでは内職がメインであったが、明治20年代には、ミシンも導入され、生産量が飛躍的に増加した。そして第2次世界大戦後は足袋の他に靴下の製造も盛んになった。
  また広大な土地を利用した工業団地が出来、ここに大手の計測器メーカーの工場・研究所が移転し、仕事でよく来たことがある。
忍城跡
  かつて忍城があったころは、今よりも、沼や沢が多く、自然の要害となっていた様だ。 
  こんな地形を見て、石田三成が今でも一部残されている石田堤を作って、忍城を水攻めにしたが落城しなかった。逆に、忍城より水泳の達者なものが、夜陰に紛れて、三成の本陣の前まで泳いできて、堰を壊し三成軍に多大な被害を与えたとのこと。
  この忍城は、荒川と利根川間の低湿地帯の沼沢を天然の要害としており、上杉謙信の攻撃や石田三成の攻撃にも落ちず、難攻不落の城といわれていた。  
三階櫓
  しかし、1590年秀吉が小田原城を落とした時に開城となり、その後は徳川氏歴代の親藩・譜代の大名が配置(10万石)された。
  忍城は、自然の沼沢をうまく利用して、土塁と掘りで区切られた大小20の郭(くるわ)が作られ、その各々が橋で結ばれていた。
  三階櫓(さんかいやぐら)は、本丸跡に、昭和63年に復元されたもので、忍城の実質的な天守閣として機能した建物である。  
鐘 楼 
  文政6年(1633年)松平氏が伊勢桑名より忍藩へ移封となったときに持ってきた鐘を模して造られたもの。本物の鐘は三階櫓の鯱(しゃちほこ)と共に隣接した行田郷土博物館に展示されている。
  なお、鯱は大きさ1.8mもあり、日本最大級の大きさとか。なお、この松平氏が最後の城主となり、明治を迎えた。明治6年には三階櫓を含め、主要な建物は競売に付せられ、解体された。
行田博物館
  本丸跡にある行田市郷土博物館である。行田の歴史と文化をテーマにして、古代、中世、近世と構成されている。
  市内には埼玉古墳群を初め、9ヶ所の古墳群が確認されており、古代から、この辺が栄えていた様子が伺える。



ルート

東北自動車道 加須IC
又は秩父鉄道 行田市駅 歩1km
〜水城公園〜忍城本丸跡
〜三階楼〜行田市郷土博物館

散策 3時間

駐車場

市営駐車場 有料
 
休憩所・トイレ

有り

0311/0402/0507

悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版
Part 1
戻 る 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

Hitosh