東銀座・築地
Higashiginza/Tsukizi


歌舞伎座
  地下鉄の日比谷線と都営浅草線に「東銀座」駅がある。場所的には、昭和通りと晴海通りの交差する銀座4丁目の交差点(三原橋)である。
  晴海通りの下を走る日比谷線の駅より地上にでると目の前に、古風な建物があり、驚かされる。最初は、どこに迷い込んだかと思う程、意外な感じがしたものだ。
  その建物がこの歌舞伎座(客席数1866人)の建物である。良く観光バスが横付けされている。東京見物の名物ともなっている。  
歌舞伎座正面
  観劇料は、通常は14,000円から2等席でも1万円するが、3階の幕見(まくみ)席は、一幕単位(700円〜1000円)で歌舞伎を見ることが出来る仕組みだ。
  バスツアーの団体さんも入ってくる。幕見席は座席90、立ち見席60人の合計150人分が用意されているから、フリーの客も簡単に入ることが出来る様になっている。  
   歌舞伎座は、明治22年(1889年)に開場。当初の建物は外観を洋風にしていたが、1911年に日本宮殿式に改築された。しかし、1921年に焼失し、1925年に外観を今度は桃山風にして再建されたが、1945年の空襲で再び焼失し、1951年に復興されたものが現在のものとのこと。
  歌舞伎には、月一度の割で行っているが、いつもほぼ満員であるのには驚かされる。この古典芸能が今でも生き延びているのが不思議なくらいの人気を保っている。
  東銀座に来ると、和服姿の人が多いのも、最初奇異に思ったが、この歌舞伎座や近くの新橋演舞場に来る人は、今でも着物姿が目に付く。
新橋演舞場
   新橋演舞場は、銀座6丁目にあり、当初新橋芸妓組合を主体とした新橋演舞場株式会社として1925年に開場し、新橋芸妓による「東をどり」が始めて上演された。
  「東をどり」は、京都の「都おどり」に対抗して、新橋の芸妓が始めた舞踊で、一世を風靡した。春秋2回行われる「東をどり」公演の合間には、歌舞伎や文楽、喜劇等も上演されていた。
  この新橋演舞場も、戦災で焼失し、1948年に再建、1982年に大改築が行われ、現在に到っている。こちらは、歌舞伎座と異なり、地上16階、地下3階のビルとなっており、舞台は、歌舞伎からミュージカルまで上演できる設備となっている。  
新橋演舞場客席
  客席数は1428で、歌舞伎座と違い、ゆったりしており、舞台も見やすくなっている。歌舞伎座は、前の人の隙間から舞台をのぞきみる感じであるので、偉い違いである。
  東銀座にはこのほか、東劇、松竹会館などがあり、芝居や映画の一中心になっている。また銀座7丁目のヤマハホールやその横の路地の地下には生のシャンソンを聴かせる「銀巴里」があった。特に銀巴里は学生時代によく行ったものだ。丸山明弘(現在は美輪明弘)や岸葉子などが唄っていた所である。  
築地場外市場
  近くの築地には、かつて築地小劇場(大正13年、1924年開場)もあり、ここは日本最初の新劇の専門劇場として賑わっていたが、1945年の戦災で焼失し、再建はされていない。
  東銀座から築地までは、歩いて直ぐである。今回は、新橋演舞場での観劇の前に、近くを歩いてみた。国立のがんセンターの前を通り隅田川の方に向かうとすぐの所にこの場外市場がある。
  時間的に、この市場の店はどこも閉まっていた。築地の魚市場(東京中央卸売市場)は、関東大震災の後に日本橋河畔から、築地に移転してきた。  
築地本願寺
  築地市場より晴海通りを挟んで反対側にある立派なお寺が築地本願寺である。浄土真宗本願寺派(西本願寺)の別院である。1617年に浜町に創建されたものが火災にあい、現在の築地に移った。
  その後も、何度か災害にあい、現在のインド風建物は1934年につくられたもの。私の叔父の菩提寺でもある。
  今回は懐かしいところをぐるっと回り、又演舞場に戻った。出し物は大地真央主演の「椿姫」であった。



ルート

日比谷線 東銀座
〜歌舞伎座〜新橋演舞場
〜築地市場〜築地本願寺

歩行 2時間

駐車場

築地市場 有料
都営 有料

トイレ・売店
有り

 

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悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版
Part 1
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