佐世保〜長崎
6503
佐世保湾 | 前日の夕方、東京を発ち、佐世保に着いたのが、午前11時頃であった。約19時間の夜行列車は流石に疲れたのを覚えている。 駅には、大学の級友のK氏が、迎えに来てくれていた。最初、東京で彼にあったときの印象は、どこか外国から来た人ではないかと思うほど、言葉が分からなかった。それほど、関東の人にとって佐世保弁はわかりにくかった。その佐世保に、始めて来たのであるから、当時は遠いところに来たと言う印象が強かった。 |
|
佐世保港 | K氏の案内で、まず腹ごしらえしたのが、今でこそ有名になっている、チャンポンであった。豚骨のスープは、当時の我々にとっては、全くの始めてのものであったが、空腹の性か、妙に旨かった。 その後、弓張り岳(364m)に登り、佐世保港を見下ろした。ここは、九十九島から平戸、そして眼下には佐世保港と市街が手に取るように見える景勝地になっている。 九十九島を見た後、平戸に行きたかったが、そのまま佐世保に戻り宿を取った。翌日は平戸街道を大村湾沿いに長崎方面に向かった。 |
|
国際文化会館庭 |
平戸は、昔(1550年)ポルトガル人が渡来したところで、江戸時代にはポルトガル、イギリスと通称、オランダ商館(後に長崎出島に移された)が設けられ、また隠れキリシタンの多い所であった。 この平戸街道(唐津街道)沿いの、佐世保は、当時小さな寒村であったが1886年に海軍鎮守府が設置されてから急速に発展した町で、現在人口約24.4万人の市となっている(平戸は2.4万人)。溺れ谷の佐世保湾は広湾入を作り、水深は大きく、巨大な船舶の停泊に適している上、湾口は狭く軍港としての優れた条件を備えていた。 |
|
平和記念像 |
東彼杵(ひがしそのぎ)より、長崎街道に入る。今でこそ、長崎自動車道が出来ていたが、当時は狭い海沿いの道路であった。ここには、17世紀頃捕鯨漁が行われ、鯨問屋が置かれた。 近くの千綿(ちわた)川上流は、千綿渓谷、名曝の一つ竜頭泉があり、付近一帯は多良岳県立自然公園に指定されている。 大村、諫早を経て長崎に入ったのは夕方遅くであった。翌朝長崎見物を行った。左上の写真は、庭の池に長崎出島の形をした、敷石がある。この出島跡は、今は復元され、当時の面影を伺うことが出来るようになっている。 |
|
大浦天主堂 |
原爆による惨禍を伝える原爆落下中心碑や平和記念像が、別な歴史を語っている。 長崎と言うと、キリシタンを思い出す。長崎市南山手町のカトリック教会堂である。1597年(慶長2年)、長崎における殉教者に奉献され、二十六聖殉教者堂と命名されている。現存する日本最古の洋風建造物で、国宝に指定されている。 グラバー亭(別掲載)や唐寺、オランダ坂(別掲載)、中華街などを見て、長崎に泊まる。 この後、雲仙、熊本、阿蘇、鹿児島、桜島、日南海岸、宮崎、大分、別府と九州一周し、帰途は山陽線に乗り、小郡、岡山、姫路を見ながら大阪に戻り、そこから又夜行で東京に戻った。 今思うと、いかにものんびりした旅であった。 |
|
|
|
|
長崎街道、長崎路 江戸時代、豊前大里から小倉、筑前六宿、肥前対馬、佐賀領驫木(とどろき)、神崎、佐賀、牛津、小田、諫早、矢上など14宿を経由して、天領の日見、長崎に至る九州第一の幹線であった。 |