広島〜東京
山陽道〜東海道


広島県三原駅   前日の夜、東京を夜行列車で発ち、早朝の6時に、広島県の三原駅に着いた。連れと4人で、これから車で東京まで戻ろうという算段である。車は排気量、わずか600ccの空冷式コルト600である。軽自動車が360ccの頃の話だ。
  物好きでなければ、こんな事は考えないだろうが、免許を取ったばかりの我々は、とにかく車に乗りたかったのである。走行距離900km、2泊3日の行程であった。
  三原の三菱重工で車を受け取り、山陽道を通り、まず向かったのが岡山・後楽園であった。ここで、少しのんびりして、次に向かったのが姫路城であった。
姫路城   見事な姫路城で一服したあと、雨の中、六甲有馬温泉に宿を取った。途中ガソリンを入れる時、ファンベルトに亀裂が入っているのがわかり、急遽交換したほかは、このポンコツ車は、不思議なくらい元気であった。
  昨夜の夜行列車のおかげで、人間の方がばて気味であった。温泉にゆったりとつかり、翌日は早めに出立した。当時、名神高速は完成していたが、東名高速は未完成であった。
  出来たばかりの名神高速を、時速90km(それ以上のスピードは出ない)で、いい気になって走っていると、突然オイル切れランプが点灯した。
名神高速道路   ボンネット(エンジンはリアに搭載されている)を開け、チェックすると、オイルが完全にゼロであった。出来たばかりの、名神高速にばらまいて来たことになる。
  名神高速(春日井インター手前)の路肩より、連れが高架を降り、近くのガソリンスタンドでオイルを買ってきた。そして、補充して走ると、又オイル切れランプが点灯するので、見てみると、またもやオイル切れであった。オイルが漏れているようであった。
  名神高速をおり、修理工場で見てもらうと、オイルパンのねじ部に亀裂が入っているのがわかった。さあ、それからが大変であった。修理不能というのである。   
岡崎の宿  修理屋のおじさんが、あちこち電話してくれて、同タイプの中古車を探してくれ、その部品と交換してくれた。やっと又走れるようになったが、予定の時間を大分過ぎていたので今夜の宿は、岡崎城下とする。
 古い佇まいの旅籠って言う感じの旅館であった。この後は東名高速が未完成のため、一般道路を東京に向けて、とことこと、ただひたすら走った感じである。
箱根の山   最後の難所、箱根越えである。今なら、何でもないが、当時のこんな車では難儀である。案の定、オバーヒートしてしまった。また、始末に負えない事に、この空冷式のエンジンは、坂道であると、エンジンオイル多量に食うのである。定期的に補充しないと、オイルが無くなってしまうのである。
  今では考えられない、空冷式エンジンであった。この車が私のマイカー第1号となった。パブリカ(トヨタ、800cc)も空冷式であった。その後、パブリカ買おうと思ったこともあったが、結局は発売されたばかりの水冷式カローラ1000を買った。当然月賦であったが、始めて新車を買った。これがマイカー第2号であった。
湘南の海   箱根越えが無事終わり、夕方、空が赤みをさす頃、やっと湘南の海に着いて、何故かほっとした。何とか、予定通り2泊3日で、車を東京まで運ぶことが出来た。良く、この車で4人も乗り、殆ど走りっぱなしで、900kmを走ったものだとつくづく感心した。

  翌日から、仕事であるが、流石にぐったりした3日間であった。こうやって昔の写真を整理してみると、まだ若いときの事が懐かしく思い出されてくる。


            山陽道
  古代の地方行政区画の七道(五幾七道)の一つ山陽道は播磨,美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の8国が属する。
  成立時期は不明であるが、685年に左味少麻呂が山陽使者として派遣されたとの記録があるので、この頃には成立していたものと思われる
      東海道
  山陽道に同じく七道の一つ《延喜式》によれば伊賀,伊勢,志摩,尾張,三河,遠江,駿河,甲斐,伊豆,相模,武蔵,安房,上総,下総,常陸の15国が所属する
  672年、壬辰の乱の記事に、東海の記録が残されているので、この頃には成立したものと思われる。今の東海道とは鈴鹿、足柄等で異なっている。現在のJR東海道線は、鎌倉時代の東海道におおむね沿って走っているとのことである。


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