高知〜室戸岬〜鳴門
Kouchi、Muroto、Tokusima、Naruto


室戸岬
  朝、高知を発ち、土佐湾を右手に見て、土佐浜街道(土佐東街道)を室戸に向かった。時間があれば、反対側の足摺岬まで足を伸ばしたかったが、今回は時間的余裕が無く、割愛した。
  足摺岬からこの室戸岬の間の太平洋に面したところが、土佐湾(約700km近い長い海岸線を持っている)と呼ばれ、黒潮の影響で冬も温暖で、南国的気候を示している。南国市を中心にこの辺一帯はビニールハウスが非常に多い所である。 
室戸岬展望台より
  室戸岬は、台風の銀座通りあたる所として有名である。四国の南東部の太平洋に突出する岬を言う。右手の土佐湾と左手の紀伊水道を分けている。泥岩や斑れい岩が海食されて豪壮な岩礁景観を作っている。
 左手前の銅像は、幕末の志士中岡慎太郎である。岬をしっかりと見下ろしている。岬背後の海岸段丘の上に室戸岬灯台や、四国八十八ヶ所の第24番札所がある。  
牟岐港   室戸より、牟岐(むぎ)まで土佐浜街道を行く。鉄道は、まだ牟岐までしか開通していない頃である。ここより電車に乗り、阿南経由徳島に向かった。丁度、四国の太平洋側をぐるっと回ったことなる。瀬戸内海側とは、雰囲気ががらっと変わって、すべてが荒々しい感じがした。
  外洋的風土から来る進取の気性にも通じるのかも知れない。「いごっそう」(議論好き、新しいもの好きの土佐人をさす言葉。偏屈、頑固。良く言えば反骨で自尊心が強く自分の信念を曲げない)という言葉を思い出す。そして、幕末の志士、坂本龍馬、中江兆民、板垣退助、岩崎弥太郎、植木枝盛、牧野富太郎、そして始めて私が揃えた随筆全集の作者寺田寅彦、吉田茂等々を思い浮かべてしまう。
徳島眉山公園
  徳島県人のことを「へらこい」と言うそうだ。抜け目の無い、締まり屋と言った意味だそうだ。会社の部下に、徳島出身のK氏がいる。K氏は、どちらかというと、讃岐男(言葉遣いも物静かな優男)の感じがした。
  四国は狭い所であるが、育った場所により、性格が大きく違うのは地理的要因の影響が大きいせいかもわからない。それほど、県により違いが顕著な感じがした。
鳴門海峡
  徳島,眉山公園(びざん、276m、左上の写真)は、徳島駅の南西2kmの所にある。山頂よりは市街はもとより、淡路島や紀伊半島、讃岐山脈等が一望できる。
  鳴門海峡は、四国と淡路島を隔てる海峡で幅は1340mである。渦潮で有名なところである。播磨灘と紀伊水道の干満の差が大きい大潮の時で、渦の直径は20mにも達するとのことであった。
小鳴門橋
  上の写真は、鳴門公園から鳴門海峡を見下ろしたものである。鳴門の渦潮が手に取るように見えるところで、年間約250万人の観光客が訪れるとの事であった。
  今はこの鳴門海峡も、鳴門大橋が架かっており、車で簡単に淡路島に渡ることが出来る。当時は、わざわざ岡崎港に戻り、フェリーで淡路島に渡った。
岡崎港より淡路島へ
  鳴門には、八十八ヶ所第1番札所の「一番さん」(霊山寺)がある。八十八ヶ所巡りは、言うまでもなく、弘法大師の修験場所や遺徳を慕って歩くことから始まり、室町時代に整い、近世以降盛んになった。この一番さんを皮切りに、ぐるっと四国一周の巡拝をする事を四国巡礼(四国遍路)と言う様になった。
  淡路島を渡り、大阪より満員の夜行列車に乗り、立ちっぱなしで帰京した。当時はこんな事が良くあった。


            南海道
  五幾七道の一つ。紀伊、阿波、讃岐、伊予、土佐の6ヶ国の称。幾内、山陽道の南にあるから南海道と言われた。

           土佐浜街道
 
徳島城下と室戸岬経由で高知城を結ぶ街道。現国道55号とほぼ一致する。古代の官道は、愛媛県川之江と高知を結ぶ土佐北街道で、参勤交代もこの道が使われた。
      四国街道
  淡路島北東部の岩屋(淡路町)から南西端の福良(南淡町)までを縦断する古代の本州四国間の官道。今の国道29号線にほぼ相当する由。


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