守山
今宿の集落
守山宿を出ると、今宿となる
ここから草津までは、まっすぐな一本道である
近くに火祭りで知られた勝部神社がある
かつての物部(もののべ)神社だ
創建は延暦年間(782〜806年)と歴史の重みが違う
本殿は国重文に指定されている
(滋賀県守山市今宿)
今宿一里塚
街道左側の今宿の一里塚
滋賀県では現存する唯一の一里塚である
大きな榎は2代目とか
日本橋から草津まで、一里塚は全部で129箇所あり
ここがその128番目の一里塚である
後一つ(4km)で、いよいよ草津である
(滋賀県守山市今宿)
十王寺・焔魔堂
十王寺(焔魔堂(えんまどう))である
右の石柱には「焔魔法王小野篁御作」と彫られている
小野篁(たかむら)は、嵯峨天皇時代の公卿で
遣唐使の副使に選ばれたが、乗船しなかったので
隠岐に流されたことがあるという
なお、この辺一帯の地名が焔魔堂であるのには驚いた
(滋賀県守山市焔魔堂)
二町
用水路に沿って、中山道は伸びている
左手の石碑には古高俊太郎先生誕生地と彫られている
幕末の尊皇攘夷派の志士で、京都で新撰組に切られた人物である
(滋賀県守山市二町町)
栗東・大宝神社
街道はここから栗東(りっとう)市に入る
栗東に入ってすぐ左手にあるのが大宝(だいほう)神社である
広い境内は大宝公園となっている
大宝神社は名前の通り大宝年間(701〜704年)の創建で
この地の産土(うぶすな)神である
(滋賀県栗東市綣)
綣集落・栗東駅口
綣(へそ)の集落である
この地名も読めなかった
字義を調べると、屈服する、曲げるの意であった
左の道を行くとJR琵琶湖線(東海道本線)の栗東(りっとう)駅である
栗東駅の次は草津駅である
いよいよ草津まで後一駅となった
(滋賀県栗東市綣)
68草津宿
草津市境
前方に琵琶湖線(東海道本線)が見えてきた
旧中山道は線路沿いに少し進み
線路の下の細く低いガードを潜り、反対側となる
とうとう草津に入った
(滋賀県草津市西渋川)
伊砂砂神社
中山道は、ほぼJR琵琶湖線の左側を進む
やがて左側に変わった名の神社がある
伊砂砂(いささ)神社である
明治以前は渋川大将軍社とか天大将軍社と呼ばれていた
渋川の産土神である
祭神が、石長比売命(いしながひめみこと)、寒川比古命(さむかわひこみこと)
そして、寒川比売命(さむかわひめみこと)であることから
頭の1文字をとって「いささ、伊砂砂」となったとのこと
(滋賀県草津市渋川)
草津駅前通り
旧中山道の説明板と小休憩所となっている(上写真)
このベンチで小休止した
この交差点(下写真)を右に曲がると、正面にJR草津駅である
実に懐かしかった
東海道五十三次を歩いていたとき、この道を通ってホテルに泊まったところである
この付近に、中山道最後の一里塚(129番目)があったようだ
もとより今は何の痕跡も残されていない
(滋賀県草津市大路)
夢大路アーケード
旧中山道では、始めての屋根つきアーケ−ドである
このアーケードを抜け、天井川である草津川の下を抜けると
中山道68番目の宿場・草津宿となる
草津宿は本陣2、脇本陣2、旅籠は72軒の大きな宿場であった
(滋賀県守山市大路)
草津追分・草津本陣
草津川の下を潜るとすぐ草津追分(上写真)である
ここで左に曲がると旧東海道である
追分の道標には「右東海道いせみち、左中仙道美のぢ」と彫られてある
京都側から見た方角である
実に懐かしい場所であった
東海道53次を歩いていた時(平成17年11月)
再びここを訪れることは無いと思っていた
それを、今度は中山道を歩いて来て、再びここに到着したのである
連れのE氏と共に、高年の3人連れの女性に記念の写真を撮ってもらった
この女性グループは、東海道五十三次を歩いており
京都を目指していた
ゴール(京都)が近いので元気一杯であった
此方が、中山道を歩いてきたと言うと驚いていた
東海道五十三次も容易ではないが
中山道はそれ以上に難度が高いからである
この後、草津木屋本陣(下写真)に入り、中で休憩した
昔のままの本陣が残され、中が開放(有料)されている
そして、前述のアーケードに戻り
前回東海道五十三次の時に寄った店で
ビールで乾杯し、前回と同じ焼肉定食を食べた
店の女将の「おいでやす」、「おおきに」の京都弁が懐かしかった
この後、JR琵琶湖線に乗り、近江八幡に向かった
近江八幡のホテルで、改めて中山道五十三次無事踏破の祝杯を挙げた
(滋賀県草津市草津)
0705/0707
なお、草津宿から京都三条大橋までは
東海道53次徒歩の旅に纏めてあります
Data
出発 平成18年2月11日 10:00
到着 平成19年5月22日 12:10
全道程 510km、15泊 32日
交通費、ホテル・旅館代(除く飲食費、見学料)総計 34万円