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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 25

那須町・大久保〜陸奥・境の明神





那須町

大久保



泉田の一里塚を出ると、左側に大久保の集落が見えてきた

手前の川は、芦野宿から続いている奈良川の上流である


(栃木県那須町寄居大久保)


大久保石仏群



右側に旧奥州街道に沿って一列に並んだ石仏群

馬頭観世音、馬頭大神、念佛供養塔、二十三夜塔等々であった
その中で、左から5柱目は「足尾山旅行安全、郡山宿海老屋治右衛門と刻まれてあった
調べてみると、明治18年に老海屋に宿泊した人の記録が残されていた
少なくとも、明治18年までは営業していたようだ

そして、石柱の横側には「従是江戸四十五里五丁」
「文久元酉九月(1861年)」と刻まれている
道標を兼ねていた様だ

江戸時代に、足尾山山頂にある足尾神社の講があったようだ
なお、足尾山は常陸国茨城郡(現石岡市)にある山で
常陸国風土記や万葉集にも出てくる山である
古くは足尾山は、葦穂山と記されていたようだ

万葉集、常陸国歌では
「筑波ねに そかひに見ゆる あしほやま
あしかるとかも さね見へなくに」 とある

写真背後に見える道は、国道294号線(旧陸羽街道)である
石仏群と国道の間を奈良川が流れている


(栃木県那須町大久保)



瓢石




旧街道左側の山沿いに石碑3柱

左端は大分風化して判り難いが、道祖紳の様だ
中央は「瓢石 勝五郎旧跡、初花清水従是二丁」とあり、右端が瓢箪の形をした石像だ

人形浄瑠璃「箱根権現躄(いざり)仇討」の
主人公棚倉藩士、飯沼勝五郎が兄を滝口上野に殺され、
同じく上野を父の仇としていた初花と夫婦となった

仇を探している内に、足を病んだ勝五郎は、この地で療養した
その時に、山肌に刻んだのが瓢石(ふくべいし)とのこと
この背後の山肌に刻んだというが、判らなかった

近くに、初花が使用した清水があり、「初花清水」と呼ばれている


(栃木県那須町大久保)



山中入口





旧街道は国道294号線(旧陸羽街道)からここで、右の細い道に入る
入るとすぐ左に馬頭観世音が大小6体(写真左端)あった

街道は緩い登り道となっている


(栃木県那須町山中)



山中集落、明治天皇御小休所碑





下野最後の集落、山中に入る

旧家の庭先に、「明治天皇山中御小休所」の石碑があった
県境の境の明神峠を越える前に、ここで休憩されたようだ


(栃木県那須町山中)


馬頭観世音





山中を抜けると、国道294号線(旧陸羽街道)に合流する

だらだら坂を上っていくと右手に大きな馬頭観世音があった
牛馬にとっても難儀な峠道であったのであろう

今までにも数え切れないほどの馬頭観世音が建立されていた

この階段で休憩していると
蟹沢集落で会った年配の街道歩きのご夫婦が近ずいてきた

いつの間にか、追い抜いていたようだ
暫し談笑する


(栃木県那須町山中)


陸奥国・国境




目の前にかつての下野と陸奥国国境が見えてきた
現在では栃木県と福島県の県境である

境界の右の切通しの所に、松平定信が建てた領界石があった
「従是白川領」と刻まれている

また、「うつくしま、ふくしま、ようこそ福島県白河市」
と書かれた現在の大きな標識もあった

写真手前左は下野国(栃木県)側の境の明神である


(栃木県那須町)


境の明神(下野側)






国境(現県境)手前の境の明神である

玉津島神社と呼ばれ、陸奥側の住吉神社と国境を挟んで並立している
創立は古く、天喜元年(1053年)に
紀州和歌浦の玉津島神社を分霊勧請と伝えられている

旧東山道沿いの追分の明神とともに
道中安全の神として古い歴史を偲ばせる史蹟となっている


(栃木県那須町)

陸奥・白坂

境の明神(陸奥側)






国境を越えると、左側に陸奥国(福島県)側の境の明神がある
国境を挟んで、下野側と陸奥側に境の明神が2社並立している

由緒は不明で、文禄4年(1595年)に
当時白河を支配していた会津藩主の蒲生氏が
社殿を造営している

現存するのは、弘化元年(1844年)に建てられた小祠である
奥州、越後の諸大名や多くの商人、旅人の往来が盛んで
道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり
灯籠や碑の寄進が盛んに行われていた様だ

また、芭蕉や大江丸の句碑や歌碑等も多く建立されている

なお、白河側ではこの境の明神では
玉津島明神(女神、衣通姫、そとおりひめ)を祀り
下野側では住吉明神(男神、中筒男命、なかつつおのみこと)を祀っている

下野側と祭る神が逆転してる

これは、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という
信仰に基き祀られている為である


(福島県白河市)


白河二所之関跡






旧街道を挟んで、境明神と反対側である
この辺に、かつては峠の茶屋「南部屋」があった
先祖は南部藩の家老であったが
金山経営に纏わる不祥事の責任を取って此処に来たと言う

切り通しの壁には大きな標識が掛かっており
「白河二所之関跡の碑」と書かれてあった

2枚目の写真は、後ろを振り返って下野方面を撮影したものである

蛇足であるが、芭蕉もこの峠を越え、陸奥の国への第一歩を踏んでいる
そして、この少し先の白坂宿から旗宿道を東に約4km歩き
わざわざ歌枕となっている古代の白河の関跡を尋ねている

しかし7世紀半ばに設けられた白河関は
芭蕉が元禄2年(1689年)訪れた時は
廃止されて久しく、その痕跡も判らない状態であった様だ
従って、折角訪れた芭蕉は拍子抜けしたせいか、句を残していない

それまで明確で無かった白河の関跡を、白河藩主松平定信が史実を調べ、
寛政12年(1800年)に始めて比定した場所が現在の白河関跡である

現白河関跡の入口近くの旗宿・関の森に
古関蹟(こかんせき)碑が定信によって建てられている

昭和30年代の調査で、土塁跡などが発掘されて白河関が
改めて確認され、今では国の史跡に指定されている


(福島県白河市)
0905/0908


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略 図

経路青線部 距離 3.67km











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