仙波東照宮 中院を参拝後、喜多院に立ち寄る。南側の裏門から入ると、直ぐ左手の丘の上にあるのが東照宮である。 家康の遺骨を久能山から日光東照宮に移葬する途中、ここ喜多院で大法要を行ったことから、元和3年(1617年)に天海が創建したもので、日光、久能山と共に、三大東照宮の一つとされている。 |
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喜多院庭園 喜多院の庭園で、葵庭園とも呼ばれている。ここには蛍が生息しているとのこと。 喜多院は、川越大師として親しまれている天台宗の関東総本山で、天長7年(830年)、慈覚大師により創建された。 境内には、この庭園の他、江戸城内の建物である客殿、書院、庫裡等が移築されている。これらは、寛永15年(1638年)の大火で、喜多院の山門を残して、総て灰燼となった時に家光が寺の復興を図って、江戸城別殿をここに移築したものである。 |
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家光誕生の間や、春日野局の化粧の間が今も残され公開されている。 慈眼堂 慈眼堂は、慈眼大師天海を祀る御堂。天海僧正は家康の信任を得て秀忠、家光と3代にわたり幕政にも携わっていた。寛永20年(1643年)に寛永寺で入寂したが。何んと107歳であったという。 家光の命により、天保2年(1645年)に、この堂が建てられ、厨子に入った等身大の天海僧正の木造が安置されている。 なお、慈眼堂は古代の前方後円墳の墳丘の上に建てられている。 |
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喜多院境内、大銀杏 喜多院の境内にある3本の大銀杏が見事に黄葉していた。樹齢は450年とのことであった。 川越では、大銀杏と言うと喜多院の西側の松江町にある出世稲荷神社の参道にあるのが有名だ。こちらは樹齢600年で市の天然記念物に指定されている。 |
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喜多院本堂・慈恵堂 喜多院本堂・慈恵堂で、大師堂とも呼ばれている。寛永の大火の翌年の寛永16年(1639年)に建てられたもので、桁行9間、梁間6間の単層入母屋造りで、延暦寺根本中堂、日光輪王寺三仏堂と同一形式の建物で、慈恵大師、左右に不動王明が祀られている。 なお喜多院は、元仏蔵院北院が改称されたものである。中院、南院とあったが、南院は廃寺となっている。 |
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喜多院境内 境内の茶店。名物の炭火焼開運だんご、厄除けだんごが人気とのことだ。 この境内で、毎年正月の3日に行われる初大師には七転八起の縁起のだるま市が開かれる。数十の露天が並び盛大に行われるようだ。 |
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六角太子堂と木遣塚 喜多院境内に六画太子堂と石で出来た木遣塚(写真左手)がある。 太子堂は聖徳太子を祀ったもので、混合院境内に建立されていたものを明治42年、ここに移築したとのこと。 木遣塚と書かれた白く長い柱は、鳶職の象徴である真棒(しんぼう)銅突きを意味しているとのこと。真棒は地面を突き固めるのに用いる太い丸太のことである。職人の神様とも言われた聖徳太子の傍に工事の安全祈願として建立したようだ。 |
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五百羅漢 大師堂の傍に、日本三大羅漢の一つ、喜多院の五百羅漢がある。 川城北田島の僧志誠(しじょう)の発願で、天明2年(1782年)から文政8年(1825)の43年間にわたり建立されたもので、全部で535体あるという。 泣いたり、笑ったり、怒ったり、読書したり、内緒話をしたりと、多彩で一つとして同じ姿のものが無い。この羅漢とは阿羅漢の略称で、尊敬や供養を受けるに値する聖者との意味である。 |
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喜多院入口 喜多院の入口付近である。今回は南側にある東照宮の方より入り、北側のこの入口に抜けた。普通の逆コースを辿ったことになる。 最後に、107歳まで生きたという天海僧正の長寿歌を喜多院の栞より引用する。 「 気はながく 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして こころひろかれ 」 この後、蔵造商家の立ち並ぶ川越の城下町に向かう。 |
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ルート 西武新宿線 本川越駅下車 徒歩 15分 バス便有 |
駐車場 有、有料 トイレ 喜多院 有 |
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