吾妻渓谷
Agatsuma Keikoku
吾妻渓谷
  アガツマと呼ぶ。普通はアズマと呼ぶが、ここだけはアガツマと呼ぶのである。アヅマとは、今更言うまでもなく、古代より、関東以東を呼ぶ呼称で、今でも多く関連した呼び方の地名がある。
  近くに吾妻(あがつま)町と言うのがあるが、この吾妻川の流域にある群馬県原町と太田、岩島、坂上の3村が合併して、昭和30年に誕生した新しい町である。  
吾妻川
  中心の原町は、周囲1000級の山に囲まれた町で、元は吾妻郡があった所である。原町の上流は吾妻峡といわれ、約4kmにわたり、奇岩の林立する渓谷となっている。今回はここを、カメラを肩にし歩き回った。
  吾妻川は、群馬県の西の端の嬬恋(つまこい)村鳥居峠付近を源とし、渋川市、子持(こもち)村の境界であの板東太郎と威名を持つ利根川に合流している。 
  草津白根山より、流れる強酸性河川である白砂(しろすな)川と、長野原で合流し、この合流点より下は、魚も生息できない死の川であった。
  しかし、中和工場と石灰沈殿を目的とした品木ダム(1965年)が出来て以来、魚も棲むようになったとのことであった。そんな目で見ると、確かにこの渓谷の岩は、嫌に酸化し、赤茶けているのが写真よりも解る。もとは、死の川であった事が納得できる感じでもある。
  こんな風に、書いていると、この辺の土地名は、土地柄の厳しさとは反対に吾妻(わがつま)とか、嬬恋(つまごい)とか、子持(こもち)とが、庶民の願いが籠もった感じの名前が多い感じがした。そして、最後に、川沿いにある洞窟の中の、もの凄い数の石仏群である。
  嬬恋村は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、村の鳥居峠に立ったとき、亡き妻、弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び「吾妻はや(ああわが妻よ)」と3度言って嘆かれたという故事より、呼称されるようになったとのこと。 
石仏
  関越道の渋川伊香保インターでおり、丁度榛名山の北側を走る感じの吾妻川沿いを走る長野街道を中之条方面へ向かい、小1時間ほどで着く。
  渓谷を歩いた後、川原湯、長野原経由で草津へ向かった。ドライブコースとしても、景色の良い所である。



ルート

関越道路、渋川伊香保インター

渋川〜小野上〜岩井堂〜伊勢町
〜中之条〜吾妻町〜吾妻渓谷

歩行時間 2時間

長野街道
  日本書紀の「景行(けいこう)紀」ゆかりの道。日本武尊の東征の後の凱旋コースで、長野街道、木曾街道を経て京に戻った
  群馬県のこの辺は、そのゆかりの地名が多い。上記の他、橘(たちばな)山、四阿(あづま)山、武尊(ほだか)山、他がある。

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悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版
Part 1
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