日本写真紀行

蔵の街・栃木
Tochigi City

巴波川(うずまがわ)
  栃木の駅は、街より離れた所にある。当時、力を持っていた商人達の反対で、この巴波川を中心とする街並から遠く離れた所に駅が出来た。
  栃木は、街の真ん中を北から南に貫通している川沿いに発達した街である。この川の両側に、今でも当時の貯蔵蔵、見世(みせ、店とも書く)蔵が多数残されており、この古びた蔵を利用して、「蔵の街」としての街づくりが行われてきた。  
巴波川沿いの土蔵と黒塀
  栃木は古くから、回漕問屋、呉服、下駄、草履、粘土瓦、石灰、みそ、醤油、芯縄、懐炉灰など、後背農村に密着した問屋が発達して来た所だ。
  この川沿いに例弊使街道が出来、その宿場町としても栄えて来た。元々は城下町(家康の6男忠輝の守役の皆川氏)であったが、忠輝の改易に合い、連座して領地を取り上げられ、栃木城は取り壊しとなった。 
  その後は舟運を中心とした商人の町として発展した。今では信じ難いが、この巴波川は江戸へ通じていたのである。
  川沿いの道が綱手道(つなてみち)である。この川は、当時は湧水も多く、水量も豊富で、流れも速かったため、上りの船はこの道を利用して、麻の綱で船を曳いていた。
旧塚田家
  塚田家は、江戸時代の木材回漕問屋で、今でも八つの白壁土蔵が残されている。
  現在、土蔵の中は由緒ある家具や陶器を陳列した展示館(塚田歴史伝説館)となっている。
  巴波川は、私が小さい頃泳ぎを覚えた所でもある。私自身は、この栃木に高校3年まで住んでいた。その後は、千葉の市川に移住したが、やはり古里と言うと栃木である。
  今回は写真仲間4人で、写真撮影のために訪れた。古びた、どうしょうも無い蔵や町並みが、今では観光資源として、磨きをかけられ、見事に甦っていた。
  懐かしさもさることながら、生まれ変わった蔵の街をみて、正直驚いたくらいである。  
栃木高校記念図書館
  巴波川と、それに繋がる県庁堀に囲まれた所の元の県庁跡にある高校(栃木高校)である。栃木高校と言うより、旧制の栃木中学(栃中)と言った方が、名が通っているぐらい、古い学校である。
  伝統(電灯)はあるが蛍光灯の無い高校としても名が知られていた。我々が現役の頃(昭和30年代)は、質実剛健をモットーとし、坊主頭に学生帽であった。
  雨の日の暗い日は、黒板に電灯を当て、後からでも黒板の字が見えるようにしていた。
  この懐かしい、古い木造の校舎はさすがに今は無かった。木造の講堂と、記念図書館だけは有形文化財として保存されていた。

巴波川の鯉 
  10万匹を越える鯉が巴波川を群泳している。山車会館の前の大きな水槽には、見事な鯉が飼われていた。
  この写真は旧県庁のあった所の県庁堀でのものである。1884年に県庁は宇都宮に移された。
蔵の街美術館
  200年前に建てられた土蔵3棟を利用して、美術館として開館したもの。今回は栃木市とゆかりの深い「喜多川歌麿とびいどろ・ぎやまん展」が開かれていた。
  歌麿は当時珍しかった異国のガラスと美人を絡ませた浮世絵を残している。びいどろ、ぎやまんは共に江戸時代から明治初めにかけて用いられた言葉で、ガラスを意味する外来語であった由。  
  この美術館の前には、栃木山車(だし)会館が出来ており、5年に一度の秋祭に街を練り歩く本物の山車が飾られている。江戸・明治時代に作られた手のこんだものである。夏祭りの神輿と共に、凄い賑わいを見せ、近隣の在からも多くの人がやってくる盛大なものであった。
   中学時代、私も神輿を担いだ事がある。休憩の度に、氷や梨、スイカ、饅頭等が食べ放題なのが当時としては魅力であった。又、祭りの時、各家庭で作る、蒸し饅頭(茶と白)も美味しかった。
蔵の街観光館(栃木市観光協会)
   典型的な見世蔵をそのまま利用して、市の観光協会としている。栃木瓦(かた焼きで、当時は箱森瓦として、関東一円に出荷)の鬼面瓦や民族玩具、地場産品の展示と販売も行っている。
   大通りの電線類が地下に埋没されたため、街路が実にすっきりとなっており、驚いた。以前はごみごみとした所であったが、実に綺麗な街並みとなったものだ。
    蔵の街観光館の横の道に入った所に神明宮がある。近くには山本有三(栃木出身の作家、東大卒)ふるさと記念館、山本有三の墓のある近龍寺、そして、あだち考古館(江戸時代の浮世絵や、歌舞伎俳優の錦絵等を展示している)があり、蔵の街観光のもう一つの人気スポットになっている。
神明宮
   応永10年(1403年)創建され、現在地に遷宮されたのは天正18年(1589年)とのこと。明治5年には県社(けんしゃ)に指定された。この境内の裏手は第2公園として整備されている。
   栃木の名前の由来はいろいろあるが、この神明宮社殿の十の千木(ちぎ)からとの説がもっともらしい。その他には、古事記に記された「遠津木(とうつぎ)」から転訛したとの説もあるが、いずれにしろ古くからの地名の様である。
      なお、下野国の国府跡は栃木市の東、宮辺で確認され、東山道もこの辺りを通っていた。
見世蔵(みせぐら、店蔵)
  商品を並べておいて売る処であるから見世(みせ、店)、そして店蔵(みせぐら)とは広辞苑によると「土蔵造りの店」となっている。この店倉が、栃木出身の作家山本有三氏の作品「路傍の石」にも出てくる。
  栃木を舞台にしたこの小説は映画にもなった。主人公が入ろうとして入れなかった中学校(旧制)が、今の栃木高校であった。
  これら見世蔵を利用して、各所で、現在も所謂みやげ物屋では無く、普通の商店として営業しているのは全国でも珍しい。家具屋、金物屋、呉服屋、瀬戸物屋、お菓子屋、佃煮屋、肉屋等が目についた。
  旧友のK氏を訪ねてみた。生憎の留守であったが、消息が分かり嬉しかった。このK氏の家は、代々の下駄屋(栃木の特産品)であったが、さすが時代の流れに抗し切れず、今は洋服屋となっており、当のK氏は東京の大学を出た後、勤め人となっている。
  左の写真は、見世蔵と言うより、古い民家がそのまま見世(店)と成った感じで、今でも営業をしていた。古い蔵の街、栃木であるから、それほど奇異でもないが、今にも崩れそうな店であった。
  帰路の電車の待ち時間を利用して、駅前に出来たばかりの新しいファーストフードのチェーン店に入って、休憩した。
栃木駅前
  この写真は、駅前のファースト・フード店の中から撮ったものだ。
  モダンな店の窓越しに見える旧駅舎は破棄される運命で、この駅舎の裏に、立派な新しい駅舎が出来ている。古い街栃木と、新しい街栃木を垣間見た様な気がした。
  
  この後、東武電車に乗り、終点の浅草で、どじょう鍋を突っついた。



ルート

 
東武日光線又はJR両毛線 栃木駅下車
〜例弊師街道〜巴波川
〜倭町蔵の町〜県庁掘り〜市役所
〜栃木高校〜蔵の町美術館
〜山車会館〜蔵の街観光館〜神明宮
〜見世蔵の商店街〜栃木駅

歩行 3時間

休憩所・駐車場

駐車場 市営 無料
 
トイレ・休憩所 あり

0307/0309/0507

悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版
Part 1
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