国分寺
Kokubunji
お鷹の道 JR中央線の国分寺駅を下車して、都立殿ヶ谷戸公園の横を通り、多摩川支流の野川にかかる橋、不動橋を渡り、そこから写真左のお鷹の道に入った。 この辺一帯が、江戸時代、尾張徳川家のお鷹場であったことから、この小川沿いの道がお鷹の道と呼ばれている。 お鷹の道を遡上し、真姿の池湧水群の手前を左に折れると直ぐの所に、現在の国分寺がある。 |
||
現在の国分寺 変な言い方であるが、現在の国分寺は享保年間(1716〜1736年)に建てられた、真言宗の寺で、医王山景勝院と号している。 もともとの武蔵国分寺は、741年聖武天皇の詔により建立されたものであるから、それに比すと、1000年の隔たりがあり、スケールも小さくなっている。 勿論、以前の武蔵国分寺は現存しない。1333年(元弘3年)、新田義貞と鎌倉方(北条秦家)の分陪(ぶばい)河原の戦いの時に焼失し、わずか礎石のみが残されている。 |
||
国分寺楼門 国分寺の前にあるのがこの楼門である。この楼門は直接国分寺とは関係なく、他所より移設されたものとのこと。 国分寺とこの楼門を挟んで反対側が、武蔵国分寺跡となっている。現在では石碑が建てられ、跡地は整地され、国分寺跡公園となっている。 寺域は、全国の国分寺の中でも最大で、南西500m、東西約900mもあったと史跡より確認されている。 |
||
国分寺碑 国分寺の市名は、当地に建立された武蔵国分寺に由来している。 湧水の多い、国分寺崖線付近は先土器、縄文時代の遺跡が多く、今でも発掘作業が行われているところだ。律令制下では多磨郡に属し景勝地であることから、武蔵国分寺建立の地と定められた由。 なお、武蔵国府は現在の府中市の大国魂(おおくにたま)神社付近と推定されている。府中の地名は武蔵国の国府所在地であったことによる。 |
||
武蔵国分寺跡 この国府と対に、741年聖武天皇の詔で諸国に金光明四天王護国之寺(僧寺)と法華滅罪之寺(尼寺)の建立が命じられた。これが国分寺で、どこも国府に近い景勝地が選ばれている。 当時の頻発した疫病や飢饉、災害などから国を守るために、国府と対になり全国的な国家事業として作られたとのこと。一部は未完であったが、全国で現在68の国分寺(尼寺)が確認されている。 |
||
史跡公園 現在でも「国府」、「府中」と呼ばれている地名は、東京の他に、静岡、広島、福井県他でも残されている。また「国分寺」は「国分」も含めると、大阪府柏原、高知県南国町、鹿児島県、栃木県、香川県などに残されている。 少し脱線したが、この国府跡や国分寺跡に因んだ地名が意外と多いことに気がつく。今回訪れた「国分寺」は武蔵国の国分寺のあった処と言う事で、昭和39年に国分寺市と命名された。 |
||
薬師堂 万葉植物園の隣にあるのが、この薬師堂である。丁度現在の国分寺の裏手の丘陵の上になっている。 この薬師堂は、新田義貞の寄進で、宝暦年間(1751〜1763年)に現在の地に建てかえられた。 ここで祀られている薬師如来は兵火を免れたもので、国指定重要文化財に指定されている。 |
||
黒鐘公園 武蔵国文寺跡より史跡公園を通り、府中街道を横切って、JR武蔵野線のガードを潜った所にあるのがこの黒鐘(くろがね)公園である。 ここから、旧鎌倉街道(史跡通り)を北上し、西国分寺駅に向かった。 ここで、今回同行の写真仲間と、小宴会を開いた。 |
||
|
|
|
ルート JR国分寺駅 〜野川・不動橋〜お鷹の道 〜真姿池湧水群〜武蔵国分寺跡 〜現国分寺〜薬師堂〜史跡公園 〜黒鐘公園〜旧鎌倉道 〜JR西国分寺 歩行 2時間 |
駐車場 なし トイレ 武蔵国分寺跡、黒鐘公園にトイレあり |
戻 る | 北海道 | 東 北 | 関 東 | 中 部 | 近 畿 | 中国四国 | 九州他 |