悠々人の日本写真紀行

旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅(2)

湯島〜本郷
Nihonbashi

神田明神(神田神社)
  神田川に掛かる昌平橋を渡り、総武線の鉄橋を潜り、神田明神下から緩い坂を上ると湯島である。神田明神下と言えば、銭形平次が女房お静と住んでいた所(舞台の設定)として知られている。
  坂の途中右手に古い大きな鳥居がある。神田明神と呼ばれている神田神社だ。江戸の産土神(うぶすながみ、氏神)である。また朝廷に反逆した平将門を合祀しているところから、江戸の町人の人気が高く、9月15日の祭礼では、山車が田安門から竹橋まで練り歩き、将軍の上覧もあった様だ。今でも江戸三大祭りの一つに数えられている。
神田明神隋神門
  鳥居を潜ると正面にあるのが朱塗りの隋神門である。関東大震災で焼失したが、昭和50年に昭和天皇即位50年を記念して再建されたものだ。
  門の外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」等の大貴己命の神話をモチーフにした彫刻が飾られている。また二層目には「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門の家紋に由来したもの。
神田明神御社殿
  写真正面が神殿で、左が鳳凰殿である。神殿は天明2年に江戸幕府によって造営されたもので、木造権現造・総朱漆塗であった。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。
  現在の神殿は昭和5年に再建されたもので、当時としては珍しい鉄筋鉄骨コンクリートの社殿となっている。国の登録文化財に指定されている。  
銭形平次記念碑
  神殿の横を入ると、野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公の記念碑である。平次が住んでいた神田明神下を見下ろす位置に建っている。昭和45年、作家有志と出版社が発起人となり建立されたとのこと。
  中山道歩いていると、こんな架空の人の記念碑が目に付く。曰く沓掛の時次郎、番場の忠太郎等である。
国学発祥之地碑
  銭形平次の碑の右手に国学発祥之地碑がある。国学者荷田春満が江戸に下って、神田明神の社家(しゃけ、世襲の神職)芝崎邸で始めて、国学の教場を開いたので、此処を江戸での国学発祥之地としている。
  なお、荷田春満は江戸時代中期の人で、本居宣長、賀茂真渕、平田篤胤らと共に、国学の四大人の一人に数えられている。父は、京都伏見稲荷の社家であった。  
湯島聖堂大門
  街道を挟んで反対側には湯島聖堂がある。こちらは朱子学を中核とした幕府の昌平坂学問所である。幕府直臣(旗本や御家人)とその子弟の学校として出発した学問所である。
  松平定信の寛政の改革の一環として、儒学試験に合格すれば、家柄に関係なく人材登用を打ち出して奨励した。
  中に入ると、正面にあるのが湯島聖堂昌平坂学問所跡(大成殿)である。
湯島聖堂(大成殿)
  将軍綱吉が儒学の振興を図るため、元禄3年(1690年)に、上野忍岡にあった林羅山が創設した私塾弘文館をここに移し、湯島聖堂としたのが始まりである。その後寛政9年(1797年)に幕府直轄学校として「昌平坂学問所(通称昌平校)」とした。
  明治になり大学校となったがすぐ廃止され、明治4年(1871年)には文部省となった様だ。その後いろいろと変遷したが一貫して学問所としての伝統を引きつき、近代教育発祥の地となっていた。
  なお、この建物は関東大震災で焼失したので、昭和10年(1935年)に寛政時代の建物を模し再建されたものである。
孔子石像
  奥庭には苔生した孔子像があった。昌平坂の昌平は孔子が生まれた村の名前である。孔子の諸説、儒学を教える学校の名前となり、この地の地名昌平坂ともなった。
  調べてみると、この孔子像は世界最大で、1975年に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたもの。この孔子像の他、孔子の高弟四賢像(孟子、顔回、曽子、恩子)も設置されていた。
東京医科歯科大裏門
  湯島聖堂に隣接して、街道左手に国立の東京医科歯科大の裏門がある。湯島聖堂の敷地は広く、その跡地の一部がこの東京医科歯科大学となっている。かつては、ここに文部省、国立博物館、師範学校、女子師範学校などがあった。
  医科歯科大は仕事で、医学部に臨床試験を依頼していたことがあるので良く通ったことがある。正面はこの建物の反対側のJR中央線御茶ノ水駅側となっている。
本郷二丁目交差点
  医科歯科大の横を抜けると左に順天堂大病院、そして正面に本郷二丁目の交差点が見えてきた。此の辺から本郷三丁目に掛けては医療機器屋の多いところで、仕事で毎日の様に通ったことがある。当時はここが旧中山道とは思わなかったので、正直驚いている。
  本郷村は東京大学の医学部のお膝元で、小さな医療器械屋が沢山あるところだ。江戸時代から続いている「いわしや(医療機器屋)」を標榜する店が今でも何軒かある。鰯の目が如何にも病人の目みたいであるからいわしや=病人を治すものを商う店となったようだ。
かねやす店舗
  本郷三丁目の角にある「かねやすビル」の柱に「本郷もかねやすまでは江戸の内」と江戸時代の川柳が書かれている。江戸時代は此処までが江戸であった。
  防災上の理由で、町奉行より本郷までは塗屋、土蔵造りを勧め、屋根は茅葺を禁止し瓦葺とした・。その境目がこのかねやすで、当時は大きな土蔵があった。かねやすより先の旧中山道沿いは、板や茅葺の家並みとなっていた。
  なお、かねやすは江戸時代、内口中医師(今の歯科医)であった兼康(かねやす)裕悦が、ここで乳香散という歯磨き粉を売り出したところ、江戸中の評判になりヒット商品となった由。
本郷三丁目交差点
  本郷三丁目の交差点を振り返って撮影したものだ。右の茶色のビルが現在のかねやすである。このビルの裏手には丸の内線の「本郷三丁目」駅のあるところである。
  本郷三丁目と言うと、医療機関係を中心としたビジネス街であるが、それよりも東京大学の最寄りの駅としても知られている。医療機器店も、もともとは東大の医学部の影響下に発達したものだ。言わば、此の辺は東大の城下町と言って良い位である。
  またこの辺は、東大生や作家、教師の下宿や大学関係者や就学旅行生相手の古い旅館が沢山あった処である。
本郷薬師
  本稿三丁目の交差点を過ぎると左手に本郷薬師がある。参道の奥に小さなお堂が建っており、中には木彫りの薬師如来とそれを護持する四天王がある。
  寛文10年(1670年)の創建とのこと。もともとは真光寺の境内の一部であったが、真光寺は戦災後世田谷に移転したため、薬師堂のみが残されてこの地に残った。
  薬師如来は、人間の病苦を癒し、苦悩を除く仏であるので、医療の町・本郷に相応しい仏様といえる。毎月8,12、22日の縁日の夜は大層賑やかであった様だ。
別れの橋跡、見送りの坂
  少し進むと別れの橋跡の標識がある。もちろん今は、川は埋められて何も無い。写真左下に別れの橋跡の説明板があった。当時の刑罰の一つ、江戸追放は此処から遠方への追放である。従ってこの橋が別れの橋であった。緩い坂となっていることから見送りの坂、または見返りの坂とも呼ばれていた。
  別れの橋を過ぎて、いよいよ江戸を出て、中山道の旅のスタートとなった。次は白山、巣鴨を経て、中山道最初の宿場・板橋宿への道行きとなる。



ルート
 
昌平橋〜神田明神
〜湯島聖堂〜本郷かねやす
〜本郷薬師〜別れ橋


歩行距離 1.43km


休憩所・トイレ

神田明神
御茶ノ水公園


名 物

歯磨き粉「乳香散」




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歩行略図
青線部を歩行





0602/0709
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