悠々人の日本写真紀行へ移動

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(38)

18江尻宿〜大沢川
  Ejiri syuku 〜 Osawagawa

袖師交差点
  庵原川を渡り600mほど歩くと袖師の交差点となる。ここを左折すると、約350mであの清水の次郎長で知られた清水港である。
  三保の松原(三保半島)に太平洋の荒波から遮られ、中世以来巴川の河口の天然の良港として栄えて来た港である。
  戦国時代は今川氏の駿府(静岡)の外港として、近世は駿府城下町の外港として栄え、廻船問屋や仲買が軒を並べていたという。
  写真左手の旧家は木島麹店、その先がやまぶん茶望月園である。
辻町交差点
  旧中山道は辻町交差点で右の細い道に入る。かつての東海道五十三次の18番目の宿場・江尻宿の入口である。
  江尻宿は巴川の左岸に発達した宿場で、入江の尻の部分にあるから江尻と呼ばれるようになった。巴川を挟んで反対側の地名は入江町となっている。
  此の辺は細井(ほそい)の松原と呼ばれる松並木となっていた。松原せんべいが名物であった。
ほそいの松原、無縁さんの碑
  元禄16年(1703年)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、ほそいの松原は全長199間2尺(約360m)、本数は206本であったとのこと。
  しかし、この松原も太平洋戦争の時、松根油を採取するため総て伐採されてしまった。その時、街道で行倒れになった人と思われる多数の人骨が出土し、その供養のために建てられたのが写真左手の石碑「無縁さんの碑」である。
江尻宿辻二丁目集落
  江尻宿辻町(かつての辻村)の町並みである。現在は静岡市清水区(旧清水市)であるが、この清水は、清水が湧き出る土地を意味する戦国時代の地名である岡市水、棚清水からきているとか。
  大正13年(1924年)、清水町、江尻町、入江町等で合併して清水市が誕生した時、大分揉めた様だ。その時は東海道線の江尻駅という名称を残すことで妥協したが、昭和9年丹那トンネルの開通時に、その江尻駅も清水駅となってしまった。
  現在、江尻は町名としてかろうじて残されているのみである。
江尻宿・本郷町旧家
  江尻宿は、駿河では府中に次ぐ大きな宿駅で、本陣2、脇本陣3、旅籠は50軒であった。又宿内の総家数は1340軒と記録に残されている。
  なお、此の辺は宿場のはずれで、中心は未だこの先の志茂町、仲町、魚町等で、宿三町(しゅくさんちょう)と呼ばれていたところだ。現在の清水銀座と呼ばれる地域である。  
江尻東交差点
  前方の信号が江尻東交差点である。この信号を左に曲がるとJR清水駅がある。清水駅は東京駅から169.0km、普通電車を乗り継いで約3時間であるが、歩きでは日本橋からここまで11日も掛かっている。
  目的地の京都まで未だ330kmもある。先はまだまだ嫌になるほど遠い。
清水駅前通り
  江尻東交差点から、JR清水駅を見た写真である。この清水駅は旧清水市(現清水区)の中心駅で、駅舎は平成15年に出来たばかりの真新しい橋上駅であった。
  駅を挟んで反対側(東口)は清水港で、エスパルスドリームフェリーや水上バスの江尻乗場がある。
  また地元の中卸業者が直接販売する清水魚市場お魚センターや、映画館やレストラン、ショッピングモールなどが集結したポートサイドマーケットがありモダンなところとなっている。
清水銀座商店街
  江尻交差点の過ぎ、江尻郵便局の先を右折すると、巴川に沿った、かつての宿場の中心地であった清水銀座となる。
  本陣を中心に、両側は旅籠でぎっしりと埋まっていたところだ。今はすっかり模様替えをした小奇麗な商店街となっている。
  なお、右手にかつての脇本陣の大ひさし屋が建て直されて、今でも旅館として営業している。創業450年と言うから凄い。
魚町公園、江尻城跡
  清水銀座の商店街を抜けると、正面にこんもりした森が見える。巴川に面した魚町公園で、かつての江尻城(小芝城)のあったところだ。写真右の稲荷神社の裏が江尻小学校となっており、ここが本丸のあったところである。
  江尻城は永禄12年(1569年)、武田信玄の命により作られたもので、武田信光、山縣昌景、そして穴山梅雪が城主となった。その後中村一氏の家臣が城主となり、関ヶ原の戦いの後は廃城となっている。
魚町稲荷神社境内
  江尻城跡にある稲荷神社である。境内に大理石で出来た大きなサッカーボールがあった。
  日本少年サッカー発祥の記念碑である。昭和30年代、日本のサッカーが、所謂御三家と呼ばれる広島、藤枝、浦和を中心に展開されていた頃、神社裏手の江尻小学校で、サッカーの好きな先生(堀田哲爾先生)が新任で赴任してきた。
  小学生にサッカーを教え、これがきっかけで少年サッカーチームが誕生、さらに清水区内で次々と小学生チームが出来、昭和42年には、国内初の小学生リーグがスタートするまでになった。
巴川、船高札場跡
  街道に戻る。写真は巴川に架かる稚児橋から上流(府中方面)を見た写真である。この左手には船高札場跡があるところだ。巴川は、清水港で荷揚げされた荷が駿府に運ばれる重要な河川であった。
  橋の名は、家康の命により慶長16年(1611年)に板橋が架けられた時、地元の老夫婦が選ばれて、まさに渡り初めをしようとしたところ、河童の童子が現れて、対岸の入船町の方に歩いて行ったことによる。
  当初江尻橋であったのが、童子変じて稚児橋と名付けられたと伝えられている。
稚児橋親柱の河童の像
  稚児橋の4本の親柱の上には可愛い河童の童子像が鎮座している。反対側の親柱には、跪いた河童の像である。
  また、この巴川の川の名前も河童に因んでいるとか。河童に孫を引き込まれた祖母が、川に身を投げて、竜神と化して河童と戦った時、川が渦巻いたので巴川と呼ばれるようになった由。  
河童のこしかけ石
  稚児橋を渡ると入船町となる。巴川の川縁に、河童の腰掛石があった。説明板によると、平成3年の台風で石垣が崩れ、修復工事を行った時、5つの石が掘り出された。稚児橋の河童伝説に因み河童のこしかけ石と名付けた様だ。
  実際は、駿府城を築く時に、伊豆より運び込まれた石垣用の石が巴川に落ち、そのままになったのではないかとのこと。説明板には、巴川が当時の重要な水路であったことの証として、これらの石をここに置くと結んである。
追分羊羹 
  しばらく歩くと左手に、元禄8年(1695年)創業の追分洋かん(羊羹)の本店がある。格子戸に赤く大きな暖簾としっかりした店構えの店である。客は土間で、店の人は畳みに座って昔ながらの応対をする。竹の皮に包まれた、追分羊かん(蒸羊羹)が1本840円(300g)とのこと。
  写真左端にあるのは追分道標である。正面に「是より志ミづ道」左側に「南妙法蓮華経」背面に「七面大明神守護」と彫られてある。
追分の道標 
  上の道標の拡大写真である。ここが江尻宿方面と久能山・清水港への分岐点であった。
  久能山は、平安初期には久能寺があったが、武田信玄が駿河に侵攻した時、寺を移しその後に久能山城を築いた。
  武田氏が滅びると徳川氏のものとなり、家康が没した時、遺言により久能山城は廃止され、家康がここに埋葬され、東照宮の神殿と墓が山頂に作られた。
都田吉兵衛の供養塔
  さらに旧街道を進むと左側に、俗に都鳥(みやこどり)と呼ばれた遠州都田の吉兵衛の供養塔がある。清水次郎長の子分森の石松を殺した侠客で、その後次郎長一家にここで討たれた。敵役の吉兵衛の菩提を弔う人がいなかったので、土地の人が憐れみ供養塔を建てたという。
  説明板に、「此処を訪れる諸子は彼のために一鞠(いっきく)の涙をそそぎ香華を供養されるなら、黄泉(よみ)の都鳥もその温情に感涙するであろう」と書かれてあった。
大沢川、金谷橋 
  巴川の支流である大沢川に架かる金谷橋である。
  江戸時代は土橋であり、重い荷物を運搬する牛馬はこの橋を渡れず、橋横の土手を下り、川を渡って反対側の土手に上り街道に合流していた。その道を牛道と読んでいたとの事。
  金谷橋を渡ると、街道右手に少し入ったところに姥ヶ池があるというが見つからなかった。「文禄2年亀氏なるものの妻嫉妬深く、この池に身を投げて空しくなる。その怨霊この池に留まりて、行き来の人ここに立ち止まりて姥々と呼べば池の底より水泡が浮き上がる」と東海道名所図会にも紹介されているところだ。
金谷橋
  その先、JR東海道線の踏切を渡ると、地名は追分から平川地に変わる。次は草薙(くさなぎ)を経て、東海道19番目の宿場・府中宿への道行となる。
  また江尻宿を去るに当たって蛇足を一言。清水の次郎長の本名は山本長五郎である。叔父の米穀商甲田屋の山本次郎八の養子となった為、次郎八の所の長五郎で、次郎長と呼ばれるようになった由。 



ルート
 
庵川〜ほそいの松原
〜18江尻宿〜清水銀座
〜巴川・稚児橋〜追分
〜大沢川・金谷橋

歩行距離 4.48km


休憩所・トイレ

無し

名 物

黒はんぺん、追分羊かん、久能山いちご


 

薩?峠〜JR興津駅 目次 現在作成中です

以下作成中です
続きの江尻から京都までの地図と写真は、「旧東海道五十三次写真集」に掲載しております

0503/0709/1101
Hitosh


歩行略図

庵原川〜18江尻宿〜大沢川
歩行 青線部
( 4.48km )






街道写真紀行 TOP


悠々人の日本写真紀行

北海道|東北|関東|中部|近畿|中国・四国|九州|沖縄他


Hitosh