JR興津駅 横浜発6:13の各駅に乗り、沼津で乗換えて興津に着いたのは8:45であった。いよいよ旧東海道歩きの再開である。 駅前には大勢の中高年の人が屯していた。街道歩きグループの待ち合わせ場所となっているようだ。最近、リュックにスニーカー姿でウォーキングをしているグループが、どこを歩いても目につくようになった。 此方も元気を出して出発である。今回は府中宿までが目標である。途中、コンビニが無いと困るので、駅の売店で昼食用のお握りを購入した。 |
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米屋・高山仙吉商店 駅前の交差点を右折して、旧東海道に復帰した。但し、当分は現東海道(国道1号線)を歩くことになるが、この区間は平行して静清バイパスがあるので、車はそれほど多くなかった。 少し歩くと左手に米屋の高山仙吉商店があった。立派な瓦葺の旧家である。店先では今でも豆を計り売りし、米は産地銘柄に拘り奥の工場で玄米から自家精米しているとのことであった。 室内には昔からの道具や日用品が展示されており、お米と暮らしの小さな博物館となっている。 |
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宮様まんじゅう本舗湖屋 さらに左手に、宮様まんぢう(まんじゅう)と大きな看板の出ている店(菓子屋・湖屋)がある。明治時代、有洲宮が興津の清見寺に来た時に、ここの饅頭を献上したことによるとか。 子供にも食べやすいように小粒(一口サイズ)に出来ている。先祖伝来の米麹の甘酒を用いた昔ながらの製法とか。27個入りで535円である。 |
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脇本陣跡、水口屋 左手に元脇本陣、水口屋跡があった。明治になり制度が変わると、一般客相手の高級旅館一碧楼水口屋として営業を始めた。オリバー・スタットラーの著書「ニッポンの歴史の宿」の舞台ともなっている宿だ。 昭和32年には、天皇皇后陛下がここに宿泊している。しかし、昭和60年に400年続いた旅館を廃業し、現在は鈴与研修センターとなっている。 なお鈴与株式会社は、地元清水港を中心にした運送事業を主としている会社である。 |
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興津宿西本陣跡 興津宿の西本陣跡碑である。東本陣を合わせ、興津には本陣が2つあった。また、脇本陣も2つあり、旅籠34軒であった。 興津は歴史が古く、古代駅制以来の東海道の宿駅で、延喜式には息津(おきつ)と記されているところである。薩?(さった)峠と清見寺山と駿河湾に囲まれた地で、清見寺山下には蝦夷に備えた清見ヶ関(きよみがせき)があった。 鎌倉時代以降は興津氏が宿の長者で、戦国時代は今川氏の重臣となり、薩?山の警護関を管理していた。 |
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清見寺入口 右手清見寺山山麓に清見(せいけん)寺がある。右手の階段を登ると清見寺の境内となる。 1300年程前の弘文年間(672〜686年)、天武天皇の頃、蝦夷に備えてこの辺に関所が設けられ、清見ヶ関と呼ばれていた。その関所の鎮護の関寺として仏堂が建立されたのが清見寺の始まりとのこと。 またこの辺では、清見寺膏薬を売る店が数軒あったという。この店先に化粧した少年が並んで座っていたという。ケンペルの江戸参府紀行や、西鶴の武道伝来記にも出てくるが、所謂男色であった。膏薬はそのためにも使用したとか。 |
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清見寺階段 この階段を登ったところに清見寺がある。その山門は慶安4年(1651)に建てられたもので、当初は檜皮葺の屋根であったが、明治二十二年(1889年)に現在の瓦葺に改められたとのこと。 清見寺所蔵の冊子「巨龜山旧雑記」には、山門の設計は、左甚五郎の弟子で、釘を一本も使っていないのが、この山門の特徴であると記されている。 |
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清見寺大方丈と臥龍梅 階段を上がって右手にあるのが大方丈で、文政八年(1825)に改築にされている。内陣には十一面観世音菩薩の坐像を泰安している。正面に琉球王子筆の「永世孝亨」の額を掲げ、両脇の壁面には朝鮮通信使の詩文が掲げてある。 又西の間の奥には家康公「手習いの間」の遺搆が保存されている。写真の左手前の梅は臥龍梅(がりゅうばい)と呼ばれ、家康手植えの梅と伝えられている。説明板によると、清見ヶ関の庭の梅の枝を折り、ここに接木したという。 |
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清見寺鐘楼 大方丈の前の鐘楼である。3.7m四方で、文久三年(1863年)に改築されている。麓鐘は正和三年(1314年)の鋳造とのこと。 この鐘を天正十八年(1590年)4月、豊臣秀吉が伊豆韮山城攻伐の際に、陣中で使用したと伝えられている。 又高山樗牛(ちょぎゅう)の「清見寺の鐘声文」、「鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ〜}の文学碑が境内にあった。 |
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五百羅漢 大方丈の裏手には見事な五百羅漢がある。島崎藤村の「桜の実の熟する時」にも、清見寺と五百羅漢のことが記されている。この五百羅漢は江戸時代後期に作られたものとか。 清見寺は清見潟を眼下に見下ろす景勝地に建っているため、東海道を往来する人が必ず立ち寄ったという。そのため、歌や紀行文が多数残されている。 |
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興津坐漁荘 左手に元老西園寺公望(きんもち)の別荘坐漁荘(ざぎょそう)がある。大正8年(1919年)、第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議に日本の全権として出席中にこの別荘を建て、帰国後引退し、ここに移り住んだという。 又、近くに明治の元勲井上馨の別荘もあり、政財界の要人がこの地を良く訪問したので、これを「興津詣で」と当時の人は言っていたようだ。その要人達が、良く泊まったのが前述の水口屋であった。 |
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興津坐漁荘玄関 真新しい坐漁荘の玄関である。この建物は平成16年に復元されたものである。元の建物は昭和45年(1970年)、犬山の明治村に移され保管されている。西園寺公望が好んだという竹の欄間の精密な造作と、各所に職人技が凝縮された見事な建築物で、内部が公開されている。 なお、坐漁荘とは、何もせず、のんびり座って魚をとって過ごすの意味とのこと。しかし実際は、事あるごとに政財界の要人が多数訪問してきて、それどころでは無かったという。 |
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国道1号線ガード下 かつての景勝地清見潟は埋め立てられ、興津埠頭となってしまった。しかし、海岸線に沿って約5kmにわたり、帯状の清見潟公園として残されているのは救いであった。 その公園とJR東海道線の間を西に向かうと、街道は現東海道のバイパスである静清バイパスのガード下を潜る。そして、JR東海道線の陸橋を渡ると清水区横砂に入る。 |
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横砂、延命地蔵菩薩と常夜灯 旧東海道右手の小さな地蔵堂の前に、古い常夜灯が一つ残されていた。建立当時の状態のまま残されているのは、此の辺では珍しいとの事。 なお、背後のお堂の本尊は延命地蔵菩薩で、大宝珠を両手に持つ石造の坐像である。端正で柔和な顔立ちをした上品な姿のお地蔵さんとのこと。 この地蔵堂は元禄4年(1691年)の横砂検地帳には既に記載されているとか。静岡市地域登録文化財、静岡遺産認定、東海道400年祭承認しずおか百地蔵登録となっている。なお現在の地蔵堂は昭和8年に建て直されたもの。 |
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横砂集落 横砂の集落である。旧街道らしい面影が残されているところだ。左手には木造の大きな民家が並んでいる。旧街道を歩く醍醐味を感じるところだ。 ここまでくると次の18番目の宿場・江尻宿はもう一息である。 |
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東光寺 横砂本町に入ると右側に東光寺がある。正しくは医王山東光寺で,本堂の薬師如来(秘仏)は行基(668〜749年)作と伝えられている由。現在の地に移ってきたのが天文年間(1532〜1555年)とのこと。 街道に面した古い格子戸付きの門(写真左部)は、京都よりの勅使が下向の際、興津川の川止めで、この寺に宿泊することになり、急遽作られた門という。 当時は勅使の泊まる宿舎は、格式上、門構えでなければならなかったためである。 |
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庵原川 横砂中町に入り、庵原(いはら)川に架かる庵原川橋を渡ると、18番目の宿場・江尻宿に入る。江尻宿といえば、清水の次郎長であるが、ここもその所縁の川である。 未だ次郎長が26才の時、ここで喧嘩の仲裁をしたという。話は、甲州津向(つむぎ)の文吉親分が、駿州和田島の田右衛門親分に言いがかりを付けて、この庵原川の北側(写真手前側)に陣取っていた。当時、田右衛門の世話になっていた次郎長が、敵陣に単身乗り込み、一戦を交えることなく見事仲裁し、男を上げたところである。 |
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ルート JR興津駅〜17興津宿〜清見寺 〜坐漁荘〜庵原川 歩行距離 2.88km |
休憩所・トイレ 興津坐漁荘、清見潟公園 名 物 宮様まんじゅう、興津鯛、鯵の押し寿司 |
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