悠々人の日本写真紀行へ移動

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(36)

薩埵峠~興津
  Satta Toge ~ Okitsu

薩埵峠展望台
  薩埵(さった)峠の駐車場の先(興津側)の階段を下りると、旧東海道中(なか)道が続いている。東海自然歩道として整備されているので、歩きやすいハインキングコースとなっている。
  右手には、展望台が出来ている。この直ぐ下を見た写真が次の写真である。薩埵峠の絶壁の先端が駿河湾に突き出しているところを掠めるように、東名高速道路と現東海道(国道1号線)、そしてJR東海道線が走っている。   
薩埵峠先端
  ここで、東名高速道路はトンネル(さったトンネル)となっている。 
  現東海道(国道道1号線)が海蝕崖の下の海岸伝いを走っている。かつてはここが東海道の下(した)道であったところだ。今でこそ、広い現東海道が走っているが、当時は波の合間を縫って、岩伝いに通り抜ける難所であったところだ。
  貝原益軒、谷重遠共著の吾嬬路記(あづまのみちのき)に、「下道は親不知子不知として 海道の岩間を通る難所なり。今も潮干たる時は人馬通る」と記されている。
峠道
  旧東海道中(なか)道の山側は一面蜜柑畑となている。街道は険しい断崖を削って作った細い山道であった。
  この中道は前述の吾嬬路記によると、「明暦元年(1655年)朝鮮の信使来りし時始めて開く」とある。
  なお上(うわ)道は同書によると「上道は近年開く」とある。しかし、この上道は現在では消失し、通ることが出来ない。なお、上道には日本武尊遺跡の「駒の爪」と薩埵地蔵があった由。
薩埵峠道標
  道標には由比駅3km、興津駅4kmと書いてある。環境庁・静岡県の立てたものだ。東海自然歩道として整備されている。歩きやすいハイキングコースとなっている。
  東海道名所図会によると、ここから牛房(ごぼう)坂、葛篭(つづら)坂、女夫(めおと)坂、そして切り通し坂を経て興津川に着くと記されている。そして興津川の袂で、上道、中道、下道の三道が合流していた。
薩埵峠階段
  さらに進むと、街道は急な階段となっている。オランダ商館付け医師ケンペルが、元禄4年(1691年)に江戸に参府した時、この坂を「螺旋階段」と形容した坂道である。
  この階段が終わると、今度は山間の急な坂道となっている(下写真)。
薩埵峠急坂
  この辺一帯は古戦場でもあったところだ。一つは南北朝時代に足利尊氏と忠義兄弟の戦いである。もう一つは戦国時代の武田信玄と北条氏真との戦いである。
  太平記には、「感応の頃(1350~1352年)、足利のおとどい(兄弟)この山に戦う。忠義のぬし、利なくして、数十万騎の兵(つわもの)を一時の計(はかりごと)にのりて、二三里のあいだは修羅道の巷(ちまた)となりて叢(くさむら)生臭く、屍は路をうずみし」と著されているところだ。
薩埵峠東屋
  坂を下って行くと、突然目の前は開けた。遠くに興津港が見えるところである。街道は、お墓の真ん中を通っている。そのはずれに街道歩きの人用(ハイキング用)の未だ新しい休憩用東屋があった。
  この東屋で休憩していた人と言葉を交わした。静岡の高年の男性で、一人で薩埵山にハインキングに来た由。ここからの興津までの道を教えてもらった。
  この先の丁字路で、街道は左道へ入る。右へ行くと旧上道(一部現存、今は車道)経由で、左が古来からの中道(歩道)である。海岸沿いの断崖の上を歩く感じとなっている。  
薩埵峠・切り通し坂
  細い道(車通行禁止)は切通しの急坂となっている。興津港を眼前に見ながらの下山となる。この急坂を下ったところがかつては庵原郡洞(ほら)村のあったところだ。今の現興津東町である。
  難所であった薩埵峠を越え、いよいよ興津宿である。なお、興津は延喜式に庵原郡息津(おきつ)と記されている由緒のある宿場でもある。
海岸寺百体観音
  急な坂の途中右手にある海岸寺百体観音である。断崖にへばりつく様に作られている。
  海岸寺は元禄9年(1696年)開山。本堂の阿弥陀如来(波除け如来とも呼ばれている)を中心に左右50体ずつの観世音が並んで祀られているので、百体観音と呼ばれるようになったそうだ。
興津川、浦安橋
  やがて道は、JR東海道線を渡り、現東海道(国道1号線)の側に出る。旧東海道は、その手前を右に折れ、興津川に架かる浦安橋を渡る。
  興津川は東日本で一番早く鮎漁が解禁(5/20頃)される川として知られている。ここの鮎は古くから有名で、名所図会にも「此川に鮎をとる。至って風味よし」とある。
  なお、興津川は夏は徒歩渡しで、冬は仮設橋が作られた。
宗像神社
  興津川を渡ると、東海道17番目の宿場であった興津に入る。町に入ると右手に航海の守護神である宗像神社がある。創建は平安時代中期とのことで、興津の産土神であった。祭神はスサノウの命の御子、沖津島姫命ら三女神である。
  江戸時代の弁天信仰と同化され、境域を「母なる森」又は「女体の森」、そして境内にある池を弁天池と言うようになった由。
  黒松や楠木等の高い木が生い茂る社は、沖に漁に出た人から良い目印となっていたようだ。
身延道追分
  江戸時代の身延道追分である。現在の国道52号線(身延街道)はここより少し手前の興津郵便局の前が起点となっている。
  身延道はここと日蓮宗総本山である身延山久遠寺を結ぶ街道となっているが、鎌倉時代には、既にこの道は駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道であった。
  戦国時代、甲斐の武田信玄が駿河国に侵攻した時もこの道であった。
身延道入口
  追分には身延道の道標と並んで、南無妙法蓮華経と刻まれた大きな髭題目や常夜灯、そして元禄6年(1693年)建立された各地への里程を刻んだ碑もあった。それによると身延まで三里とある。
  その他、無縁仏の供養塔や、深草元政上人の漢詩を刻んだ石碑もある。
  なお深草元政上人は、元和9年(1623)2月23日生の日蓮宗の僧である。能書家で知られ、詩文や和歌を詠じ、芭蕉や新井白石からも評価を受けていたとのことである。  
興津一里塚跡
  興津の町を進むと、右側に興津一里塚跡の石碑があった(宅急便の幟の下部に)。江戸日本橋より41番目の一里塚だ。
  興津宿は本陣2、脇本陣2、旅籠34軒の宿場であった。街道は現在国道1号線となっているため、道は広げられ、かつての面影は全く無い。
JR興津駅前通り
  静岡銀行興津支店の先の信号を右折するとJR興津駅である。ここで、今回の街道歩きは中断した。難所の薩埵峠を越えて来ただけに、さすが足が重かった。
  興津駅より、沼津、熱海と各駅電車を乗り継いで帰宅した。横浜まで2時間30分掛かった。段々家から遠くなってきた。



ルート
 
薩埵峠~興津川
~宗像神社~JR興津駅


歩行距離 3.13km



休憩所・トイレ

さった峠駐車場


名 物

鮎、蜜柑


 

薩埵峠 目次 興津宿

0501/0708
Hitosh


歩行略図

薩埵峠~興津川~JR興津駅
歩行 青線部
( 3.13km )






街道写真紀行 TOP


悠々人の日本写真紀行

北海道|東北|関東|中部|近畿|中国・四国|九州|沖縄他


Hitosh