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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅14

30舞阪宿31新居宿32白須賀宿33二川宿






30舞阪宿

舞阪松並木



横浜発5:47の電車で来た
途中静岡、浜松で乗り換え、JR高塚駅に着いたのが9:56であった
今回の街道歩きはここから再開である

JR高塚駅から単調な道を辿り
舞阪の春日神社を過ぎると、この松並木になる

340本の松並木が約700m続いているところだ


( 静岡県浜松市舞阪町 )



浪小僧



松並木の切れるところで、国道1号線と交差するところに
この浪小僧の像がある

遠州灘の浜で漁師が地引網にかかった浪小僧を
助けてやったところ
海が荒れたり、風が強くなったりする時
海のそこより、太鼓を鳴らし、知らせてくれるようになった
との伝説による

遠州七不思議の一つ


( 静岡県浜松市舞阪町 )



30舞阪宿・脇本陣跡



舞阪宿は江戸より30番目の宿駅
本陣2、脇本陣1軒があった

写真は脇本陣(茗荷屋)の書院棟である
旧東海道では唯一の脇本陣遺構とのこと

主屋、繋ぎ棟、書院棟で構成され
間口5間、奥行き15間であった

なお、この書院棟は天保9年(1838年)の建築である


( 静岡県浜松市鍛冶町 )



北鴈木



北鴈木(きたがんげ)

明暦3年から寛文元年(1657〜1661年)にかけて構築された
浜名湖今切り渡しの舞阪宿側の渡船場跡である

鴈木とは、階段状になった船着場のことである
幅10間で、水際まで石畳が敷き詰められている

舞阪宿には3つの船着場があり、ここは一番北側の鴈木であった
北鴈木は、主に大名や幕府の役人が利用したところである


(静岡県浜松市森田町)



弁天橋



地震で、浜名湖が海と直結(今切)して以来
舞阪から新居までは船で渡った

海上1里の船旅であった

今は、御馴染みのこの弁天橋と、中浜名橋
そして西浜名橋を渡り対岸の新居に向かう


( 静岡県浜松市舞阪町 )



31新居宿

弁天島



弁天島である
地震で、州崎の一部が島になってしまったところだ

舞阪と新居の間が、渡船で行き来するようになったため
宝永6年(1709年)、今切り渡海の安全のため、この島に
弁天神社が建てられた

天女伝説もあり、また風向明媚なこともあり
大層な賑わいをみせるようになったとのこと

今でも観光ホテルが多数建っている


( 静岡県浜松市新居町)



西浜名橋



弁天橋、中浜名橋、そしてこの国道1号線に架かる西浜名橋を
渡ると、対岸の新居宿に入る

遠くに見える橋は、浜名バイパスの今切に架かる
浜名大橋である


(静岡県浜松市新居町)



31新居宿・関所跡



新居関所は今切の関所とも呼ばれていた

当初(慶長5年、1601年))、家康が新居の元屋敷に
創設したのが始まりであった

その後、津波の為、何度か移転し
現在の場所に落ち着いたのは宝永5年(1709年)とのこと

今の建物は安政2年(1856年)に改築されたもので
特別史跡に指定されている
関所の建物で、現存するのはここだけとの事


( 静岡県新居町 )



新居宿民家



新居宿には、古民家や旧家が、街並みと共に残されている

写真は、関所の前の路地に入り、船囲い場跡を探していた時
見かけた民家である


( 静岡県新居町 )



32白須賀宿


紅葉寺跡付近旧街道



新居宿の棒鼻跡を抜けて
次の白須賀への途中である

有名な紅葉寺跡を過ぎて、検校ヶ谷の手前付近の
旧街道である

田圃を吹く抜ける風が気持ちよかった


( 静岡県新居町浜名 )



白須賀元宿



元白須賀宿のあったところである

津波で全滅し、白須賀宿は右手奥の
潮見坂の上に移転した

近くに一里塚碑と高札場跡の碑が建っている

( 静岡県湖西市元町 )



潮見坂公園跡より





潮見坂は街道一の景勝地と言われ
数々の紀行文にその風景が記されている

西国から江戸への道程で初めて太平洋の大海原と富士山を
見ることが出来る場所として古くから人気があった

かつての潮見坂公園は、現在の白須賀中学校の敷地内にあった
その中学校の玄関口にはこの潮見の像が建ってい



( 静岡県湖西市白須賀町 )




32白須賀宿



潮見坂の山麓に、白須賀宿は展開している
本陣1、脇本陣1、旅籠27軒の宿場であった

タイムスリップしたようなモノトーンの街並みが残っており
嬉しくなった


(静岡県湖西市白須賀町)



白須賀宿曲尺手





曲尺手で「かねんて」と読む
クランク形(枡形)に曲げられた道で
軍事的な役割の他、大名同士がかち遇わないようにする
役割もあり、多くの宿場で設けられていた

格式の違う大名同士がすれ違う時、格式の低い大名は駕籠から降りて
挨拶するしきたりであった
しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては
失態となるので、予め斥候を出して、行列がかち合いそうになると、
休憩を装い、最寄の寺などに避難した

そんな曲尺手が今もそのまま残されている


( 静岡県浜湖西市白須賀 )



境 川



白須賀宿を抜けると境川である
遠州と三河との国境に流れている小さな川である

いよいよ長かった静岡県から別れ、愛知県の徒歩の旅となる
よく、ここまで歩いてきたもんだと思った



( 静岡県湖西市白須賀 )



一里山



県境の境川を渡ると、いよいよ愛知県である
かつての三河である

この辺は一里山と呼ばれ、かつては細谷一里塚があった

写真は右手西の谷方面を撮ったものだ
街道の右側も左側も広大な緩やかな坂となっている
全面、畑という感じだ

東海道は丁度尾根の上を通っているので見晴らしが良い

少し進むと三坂の交差点に出る
大きな三つの坂が、合わさったところで
雄大な景観となっている



( 愛知県豊橋市東細谷 )



33二川宿


梅田川・筋違橋




東海道が新幹線と接するところの二川ガード南の交差点を
右折すると、目の前に梅田川に架かる筋違橋に出る

この橋を渡り、東海道線の踏切を渡ると直ぐ二川宿の入口である



( 愛知県豊橋市二川 )



二川一里塚跡




二川に入り最初の角の店である
この店の所が、かつての二川宿入口の一里塚のあったところだ

現在、家の角(写真中央下部)に一里塚跡の石碑が建っている

ここから、古い町並みがずっと続いている
まさに、モノトーンの世界が展開している


( 愛知県豊橋市二川 )



33二川宿








二川宿は、道路の拡張が行われていないため
昔の街並みがそのまま残っている

本陣1、脇本陣2、旅籠38の宿場であった


( 静岡県豊橋市二川 )




二川本陣跡、資料館





元二川宿本陣の馬場家を改修復元した
江戸時代の本陣の全容を見ることが出来るところだ
背後に土蔵風の資料館が出来ている


( 愛知県豊橋市二川 )



JR二川駅




JRの二川駅に4時半に着いた
今回はここで旧街道歩きを中断した

浜松より新幹線で帰宅したが
各駅と違い、すこぶる快適であった

これからは、往復新幹線となるため
段々費用が嵩んでくる・・・・(^_^;)


( 愛知県豊橋市二川 )
0506/0608

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略 図

経路 青線部 14.63km















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