悠々人の日本写真紀行へ移動します




旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅15

34吉田宿35御油宿36赤坂宿37藤川宿






34吉田宿

火打ち坂・老松



新横浜発6:42の新幹線で浜松まで来た
JR東海道線に乗り換えて二川駅に着いたのが8:57であった

旧東海道か五十三次徒歩の旅の再開である。

☆☆☆

二川宿より火打ち坂を登った

そして、岩屋観音のある岩屋緑地より
少し坂を下った旧街道沿いに
見事なクロマツが道路を覆いかぶさるように残されている

樹齢100年以上、樹高は11.5mとのこと


(愛知県豊橋市飯村南)



吉田城大手口



旧東海道は左から右に横切っている
この手前が吉田城(現在の豊橋公園)の大手口である



(愛知県豊橋市曲尺手町)



ハリスト教会



吉田城跡の南側にあるのがハリス正教会
大正2年建造のビザンチン様式の教会

右手のこんもりした森が吉田城跡である



(愛知県豊橋市八丁通3丁目)



34吉田宿本陣跡



写真中央の石碑に吉田宿本陣跡と彫られてある
吉田宿は本陣2、脇本陣1、旅籠はなんと65軒もあったという

このあたりが吉田宿の中心としてもっとも賑わっていたところである
「吉田通れば 二階から招く しかも鹿(か)の子の振袖が」と謳われ
飯盛り女の多い宿場として知られていた

鰻はふるくからの名物
本陣跡に建つのはうなぎ懐石の老舗「丸よ」



(愛知県豊橋市札木町)



湊町公園・神明社



豊川の畔にある、湊公園
江戸時代はここから伊勢への船が出ていた

公園に隣接した神明社の創建は古く、白鳳期と言われている
5月14〜15日の御衣(おんぞ)祭が有名


(愛知県豊橋市湊町)



豊 川



豊川に架かる橋、豊橋より上流を見た写真
豊橋市の地名となったところだ

橋を渡り、すぐ左に曲がると
御油宿への旧東海道が真っ直ぐに伸びている


(愛知県豊橋市船町)



35御油

御油道



豊川に架かる豊橋を渡ると御油道となる
路傍に「御油道」の道標がある

写真は飯田線の小坂井駅の踏切を渡った辺りである
古い町並みが残されている

少し行くと、右手に一里塚跡の石碑があるところだ
江戸日本橋より75里(300km)と彫られている


(愛知県小坂井町)



大社神社



特徴ある大社神社の長い白壁の塀である
この塀に沿った道が旧東海道である

ここまでくると御油宿はもうすぐだ


(愛知県豊川市御油町)



御油橋



音羽川に架かる御油橋は今は五井橋とも言われている
御油宿は当時五井とも書かれていた由

この橋を渡ると御油宿である



(愛知県豊川市御油町)



御油宿





御油宿の街並みである
本陣3、旅籠62軒の賑やかな宿場であった

JRや国道の建設からはずれ、また戦災や大きな災害にも
遇わなかったため、江戸時代と殆ど変わらない街並みが残されている

連子(れんじ)の家も多く残っている町である



(愛知県豊川市御油町)



御油の松並木



クロマツの並木が600mに渡って続いている
樹齢300年以上のものが350本も保存されている
国の天然記念物に指定されている

弥次さん、喜多さんが狐に怯えた珍騒動の舞台でもある


(愛知県豊川市御油町)



36赤坂宿

赤坂宿入口



御油の松並木を抜けると目の前が
江戸より36番目の宿、赤坂宿である

芭蕉が「夏の月御油よりいでゝ赤坂や」と詠んだところ
御油宿より僅か1.6kmで赤坂宿となる
距離が短いので、2宿で殆ど同時に、同じ月が見える意である

街道左手すぐの関川神社にこの芭蕉の句碑がある



(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)



赤坂宿街並み





御油と同じく、道幅も江戸時代のままである
赤坂宿は本陣3、脇本陣1、旅籠62軒
飯盛女の多い宿場として知られていた


(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)



旅籠・大橋屋



江戸時代より続いている旅籠
今でも営業している
旧屋号は「伊右ヱ門鯉屋」であった

この建物は正徳5〜6年(1715〜1716年)に建てられたものとか


(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)



赤坂宿西方見附跡



右下の杭に赤坂宿の西方見附跡と標されている
ここからは次の藤川宿まで8.8kmの距離である

今日はここで、徒歩の旅を中断し、名鉄の赤坂駅より電車で豊橋に戻った

明日はここから再開である



(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)



豊橋駅前





豊橋に着いたのは夕方の6時過ぎであったが
まだ明るかった

下の写真は、予約してあったTグランドホテルの窓より撮影したものだ

今回の東海道五十三次徒歩の旅で始めての宿泊であった


(愛知県豊橋市)



37藤川宿


旧東海道 長沢、山口バス停前



豊橋より名鉄で赤坂駅まで戻り、旧東海道に復帰した

赤坂宿を出ると、昔のままの道幅の街道が続いている
まるで、江戸時代にスリップした感じである
約3.5km、こんな感じの道が続いている

次は、岡崎市の松平一族の故郷、本宿(もとじゅく)である


(愛知県宝飯郡音羽町長沢)



岡崎本宿入口



左が旧東海道である。右手は現在の東海道(国道1号線)である
町の入口には、立派な道標と案内板で、旅人を歓迎してくれている


(愛知県岡崎市本宿)



法 蔵 寺



本宿といえば、もうこの法蔵寺である
家康の先祖松平一族(初代親氏)の菩提寺である
家康が、今川の人質に出される前の一時期
ここで手習いや漢籍をここで学んだという

今でも数々の家康所縁の遺品が残されている

江戸時代は、東海道に面していることもあり
門前は「下馬の礼」の扱いを受けていた

また、この寺は、近藤勇の首塚のあることでも知られている



(愛知県岡崎市本宿)




本宿 長屋門



都野龍碩邸跡と長屋門(写真)
宇津野氏は、代々の医家で古部村(現岡崎市古部町)の出身

3代目の立碩がここ本宿村で
宝暦年間(1751〜63年)に開業したのが始まりとのこと


(愛知県岡崎市本宿)



本宿西方入口



ここで、岡崎本宿と別れて、次はいよいよ藤川宿である
ここより暫くは単調な国道1号線歩きとなる


(愛知県岡崎市本宿)



旧東海道 山中



本宿を出て、少し歩くと、旧東海道は、国道1号線より右に分かれて
名電山中駅の前を通っている

旧東海道は豊橋から当分は、この名鉄沿いの道歩きとなっている


(愛知県岡崎市舞木町)



山中八幡宮



見事な灯篭がある
右手が山中八幡宮である

家康が若いとき三河の一向一揆との戦いで
この境内の山腹の洞窟「鳩ガ窟(はとがくつ)」に逃げ込み
見つかりそうになった時に
鳩が飛び立ち、難を逃れたと伝えられている


(愛知県岡崎市舞木町)



37藤川宿 東棒鼻



藤川宿の東の入口(棒鼻)である
標識に「藤川宿の棒鼻みわたせば
杉のしるしとうで蛸のあし 歌川豊広」とあった


江戸より37番目の宿場である

思えば、遠くへ来たものだ
ここの木陰のベンチで、持参の弁当と缶ビールで昼食を取った

とにかく、暑かった


(愛知県岡崎市藤川町)




藤川宿街並み



藤川宿は本陣1、脇本陣1、旅籠36軒
東海道では、比較的小さな宿場であった

岡崎と吉田・御油・赤坂に挟まれた宿場だけに
かえってその静かさに人気があったようだ


(愛知県岡崎市藤川町)



津島神社



こん灯篭には寛政7年(1785)・六月建と彫られている

津島神社の参道入口ではあるが
ここから神社へは行く事が出来ない
 
途中に名鉄の電車が走っており、参道が寸断されている


(愛知県岡崎市藤川町)



藤川宿 脇本陣跡




元脇本陣、橘屋大西喜太夫家
無人の藤川資料館になっている
宿場の模型や高札等が展示されている


(愛知県岡崎市藤川町)



藤川宿 西棒鼻



藤川宿の西の入口(棒鼻)である
棒鼻跡と背後は藤川小学校である

街道を挟んで斜め向かいに
十王堂と芭蕉句碑がある
「ここも三河むらさき麦のかきつばた」


(愛知県岡崎市藤川町)



旧東海道



藤川宿を抜けると、旧街道はまた松並木となる
この先名鉄の踏み切り手前に吉良道の道標があるところだ

次はいよいよ家康の生誕地、岡崎宿である


(愛知県岡崎市藤川町)
0506/0608

前へ 東海道目次 次へ


略 図

経路 青線部 31.30km

















悠々人の日本写真紀行へ移動します

写真日記掲示板

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他