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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅17

岡崎城39池鯉鮒宿40鳴海41宮宿






岡崎城

岡崎城御用土場跡



新横浜発6:42の新幹線で来て、豊橋より名鉄に乗り換え
東岡崎駅で下車した

乙(おと)川に架かる殿橋を渡り、左折したところが
岡崎城跡で公園として整備されている

今回は、その川沿いの道「竹千代通り」を歩いた
竹千代とは家康の幼名である

途中の河川敷に岡崎城下の御用土場跡(船着場)があった

「五万石でも岡崎さまは、お城(しろ)下まで船が着く」
と唄われたところである



(愛知県岡崎市康生町)



龍城神社神橋



竹千代通りの右側にある神橋(太鼓橋とも)
見上げると、岡崎城天守閣が樹間より望める所である

岡崎城天守閣と並ぶように本丸跡に建っている龍城(たつき)神社の神橋である

龍神神社の創建は古く
三河の守護代西郷弾正正ェ門稠頼(つぎより)が築城した時に
現れた龍神を祀ったのが始まりとか

其の後、東照宮を奉祀し、家康、そしてあの本多忠勝が合祀された



愛知県岡崎市康生町)



八丁蔵通り




岡崎の誇りは岡崎城と全国に流通した八丁味噌である

丸大豆(矢作大豆)と矢作川の良質の伏流水を用いて、3年かけて完成させる

江戸時代から続いている老舗が
2軒(早川商店、大田商店)残っている
起源は室町時代に遡るという

写真は八丁蔵通りの味噌蔵群である
八丁とは、岡崎城から八丁(870m)離れているところからとのこと

八帖町(昔は八丁村)として地名が残されている
近くに八丁味噌資料館がある


愛知県岡崎市八帖町)



矢作川



三河の一つ、矢作(やはぎ)川である

往時は奥三河との物資流通の中心であった
この川を利用して、味噌に使用される吉良地方の塩も運ばれた

この川に架かる矢作橋は、旧東海道で最長の橋としても知られていた
広重の絵にも左下から右奥へとアーチを描く堂々たる橋として描かれている



愛知県岡崎市矢作町)



出会いの像



矢作川のもう一つ有名なのが
秀吉が日吉丸と名乗っていた頃、ここで野武士の蜂須賀小六と
出会った所として知られている


橋を渡った右岸に大きな石像が建てられている


(愛知県岡崎市矢作町)



39池鯉鮒宿

雲竜の松




旧東海道右手にある永安寺(延宝5年、1678年創建)の見事な松だ

樹高は4.5mしかないが
四方に地を這うように幅24mにわたって伸びている

樹齢300年、幹の囲3.7m
県の天然記念物に指定されている


(愛知県安城市浜屋町)



安城の松並木



浜風を受けて右に傾いた松並木である
明治川神社の先の旧街道沿いにある

次ぎは知立宿である


愛知県安城市東栄町)


39池鯉鮒宿・町並



安城市を抜け、知立市に入った
かつての池鯉鮒宿である

来迎寺一里塚の少し先の町並である

来迎寺一里塚は江戸日本橋より
84番目(84里、336km)のものである

珍しく、旧街道の両側にきちんと1対残されている

生憎の小雨模様となったが
歩道のオレンジ色が爽やかであった


(愛知県知立市牛田町)



池鯉鮒・松並木



来迎寺の一里塚を抜けると、池鯉鮒の松並木となる
両側に側道がついているのが特徴であった

この側道は、馬市の時に馬を繋ぐために使用したものとか
現代の歩行者にはありがたい側道である

国道1号線(現東海道)と交差する手前に
馬市之の跡碑、馬像が建っている


愛知県知立市牛田



慈眼寺




「馬頭観世音菩薩及家畜市場」と彫られた馬市の碑がある
ここで、馬市が行われていたとのこと

池鯉鮒(現在の知立)の馬市は
陰暦の4月25日から5月5日にかけて
池鯉鮒宿の東側の野原で馬市が開かれていたとのこと

4、500頭の馬が繋がれ、物売りや遊女も多数集まり
大層な賑わいであった由


広重の東海道五十三次にも描かれているように
池鯉鮒の馬市は有名であった

なお、池鯉鮒は、万治(まんじ)道中記による
「ここに池あり。明神の使いとて鯉鮒多し。故に池鯉鮒という

とある



愛知県知立市山町)



知立本町山車庫



この辺が池鯉鮒宿の中心であった

写真は本町の山車を保管している蔵である

知立神社の祭礼は、2年に1度5月3日に行われる
本町、山町、中新町、西町、宝町の5台の山車が繰り出される

高さ7m、重さ5tもあるという
釘を1本も使用していないとか

250年前から続いている、山車の上で行われる、山車文楽とからくりは
全国的にも珍しく、国の有形民俗文化財に指定されている


愛知県知立市本町



知立古城跡



知立神社の神官永見氏が築城
桶狭間の戦いの後、織田氏によって焼かれたが
後に刈谷城主の水野氏により、大規模な御殿が建てられ
将軍上洛や藩主巡遊の際の休息所となった

現在は小公園となっている
その一隅に建っているのが、この公民館である



(愛知県知立市西町)



了運寺




知立古城跡のすぐ先にあるのが了運寺

手前常夜灯の左の建物が知立名物の
大あんまきの元祖小松屋本家である

今回の徒歩の旅はここで中断し、知立のホテルに泊まった


(愛知県知立市西町



知立神社



翌朝は、生憎の雨模様であった
傘と雨具併用の出立ちでホテルを出発した

最初に立ち寄ったのが知立神社であった

奈良時代から東海の名社として崇められてきた式内社
江戸時代には東海三社の一つに数えられていた

境内にある多宝塔(国重要文化財)は850年創建とのこと


(愛知県知立市西町



刈谷、旧街道町並



知立市を抜け、刈谷市に入った
生憎の小雨模様であったが、いい雰囲気の町並である

名鉄の富士松駅付近である

境川に架かる境橋を渡ると、いよいよ尾張豊明市に入る



愛知県刈谷市今川町)



40鳴海宿

境 橋



境川に架かる境橋を渡ると、三河(刈谷市)と別れ
いよいよ尾張(豊明市)入りである

慶長6年(1601年)東海道に天馬制度が設けられると同時に
ここの橋は架けられたとのこと

当初は、中ほどより西(尾張側)は板の橋で、手前(東側、三河側)は土橋であった
度々洪水で流され、其の後は一続きの土橋となり明治を迎えた由


(愛知県刈谷市境川)




阿野一里塚



阿野の一里塚は、今でも街道の両側に残されている

慶長9年(1604年)、家康が永井白元、本田光重に命じて
街道の両側に築かせたものである

ここの一里塚は国指定史跡になっている


愛知県豊明市



桶狭間古戦場跡



この地は、田楽楽挟間、館挟間とも呼ばれていたところ
丁度谷間のようになっているところだ

永禄3年(1560年)、今川義元が信長に襲われ戦死したところである
今川義元の墓が、この写真の右手奥に残されている


愛知県豊明市



有松・町並み






有松の町並みは見事である
良く保存されている

有松は知立宿と鳴海宿の中間点で間の宿として賑わったところである
また、尾張藩の加護を受けて作られた絞りの産地としても繁栄したところで
今も伝統を活かした有松絞りは有名だ

写真は服部家で、江戸時代から続く絞り問屋であった


愛知県名古屋市有松町有松



平部町常夜灯



日本橋より40番目の鳴海宿の東の入口にある立派な常夜灯である
表には秋葉大権現、右には宿中為安全、左には永代常夜灯
そして、裏面には文化三丙寅正月と彫られている

文化3年というと、1806年である
もう200年も、旅人を見守っていたことになる


(愛知県名古屋市鳴海)



40鳴海宿・町並み




鳴海宿は知多半島の付け根の低い丘陵地の上で
かつては広い入江(鳴海潟)があり、交通の難所であったが
その面影は全く感じられない

鳴海は、本陣1、脇本陣2、旅籠68軒の宿場で、
宿場の東西の入口には大きな常夜灯が置かれていた



(愛知県名古屋市緑区鳴海町



丹下町常夜灯



鳴海宿の西の入り口にある常夜灯である
背後には寛政4年と彫られてある
西暦で言うと1792年に建立されたことになる

鳴海宿を後にして、次はいよいよ宮入りとなるところだ


(愛知県名古屋市鳴海)



41宮宿

笠寺一里塚



江戸より88番目(約352km)の一里塚である
名古屋では唯一のものだ
大きな榎が見応えがある

この榎は、一時枯れかけたが、平成6年に200万円をかけて
幹に空いた穴を塞いだところ、見事蘇ったとのこと

ここのベンチで小休止した
左の道が旧東海道である


愛知県名古屋市南区



笠寺観音



笠寺観音、正しくは真言宗の笠履寺(りゅうふくじ)
縁起によると、天平年間(729年〜749年)に
禅光という僧侶が、漂着した木で、十一面観音を彫って
小堂を建て安置し、小松寺と名付けたという

その後寺が荒れ、観音像が野ざらしとなっていたのを
付近の娘(鳴海長者の侍女)が笠を被せ、像を雨露から守った
やがて、その娘はご利益があったのか、太政大臣藤原基経の3男である
兼平に嫁ぐことになった

そして、兼平の援助で、寺が再興され、名も笠履寺と改められたとのこと
今でも笠をかぶった本尊は、8年毎に開帳されている


愛知県名古屋市南区)



現東海道



不思議な感じのする写真である

青く塗装された道路が、現在の東海道(国道1号線)である
ちょうどここ松田橋交差点で旧東海道と現東海道が交差している

写真左端の人の歩いている狭い道が旧東海道である


愛知県名古屋市瑞穂区)



裁断橋跡



名鉄のガードを潜ると、左側に裁断(さいだん)橋跡がある
ここに流れていた精進川に架かっていた橋で、その袂に姥堂があった

裁断橋にまつわる話は、欄干の擬宝珠に記された
銘文でよく知られているが
長くなるので、ここでは省略する

その姥堂が、この建物の2階になっている
さらに右手の灯篭の後には「都々逸発祥之地」碑が建っている


(愛知県名古屋市伝馬町)



41宮宿・伝馬町町並み




街路灯に「旧東海道」と書いてある
厚田神宮の門前町として発達した宿場の中心であったところだ

宮宿(熱田宿とも)は本陣2、脇本陣1
そして旅籠はなんと248軒もあったという

もちろん、東海道随一の宿場であった
ここから宮の渡しは直ぐ近くにある


(愛知県名古屋市伝馬町



宮の渡し





宮の渡しの渡船場跡である
伊勢(三重県)の桑名まで、ここから七里であったので
七里の渡しとも言われていた

旧東海道はここから、次の桑名までは約3時間の船旅であった
東海道名所図会によると、当時の船は40人乗り、47人乗り、53人乗りがあった

宮の渡しに着いた時、一寸感傷的になった
日本橋を昨年の10月にスタートして
20日目にやっと、ここまで来たかと思うとこみ上げるものがあった

次は、いよいよ伊勢(三重県)の桑名である
京都がぐんと近くなった感じであった



(愛知県名古屋市大瀬子町



熱田神宮




宮の渡しで、旧東海道は海路となる為、ここで街道を歩きを中断して
熱田神宮に行ってみた

中はとにかく広い
圧倒されるぐらいであった
境内地は19万平方メートルもあるという

信長が桶狭間の戦いのとき、ここで戦勝祈願をした話は有名である
その信長が、戦勝の後、ここに奉納した築地塀が
今でも信長塀として残されている


(愛知県名古屋市熱田神宮1丁目



名古屋市役所




予定より早く、宮の渡しに着いたので
宮の渡しと名古屋城を結ぶ堀川沿いを名古屋城まで行ってみた

名古屋城の手前にあるのが、名古屋市役所(左)と愛知県県庁である


(愛知県名古屋市三の丸



名古屋城天守閣




二の丸跡よりみた天守閣である

尾張名古屋のシンボルとなっている天守閣の屋根の金鯱が有名である
第2次世界大戦で焼けてしまったため、昭和34年に再建されたもの

金(18k)の使用量は、雄が44.7kg、雌が43.3kgとのこと



(愛知県名古屋市二の丸



名古屋駅



日が暮れてきたので、名古屋駅に戻り
ここで、味噌カツに生ビールを飲んだ

そして新幹線で家に戻った


(愛知県名古屋市名古屋駅前)

0509/0608

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略 図

経路 青線部 22.44km

















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