悠々人の日本写真紀行へ移動します




旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅 18

42桑名宿43四日市宿44石薬師宿45庄野宿井田川





42桑名宿

桑名宿・七里の渡し





とうとう伊勢(三重県)に入った
思えば、本当に遠くまで歩いてきたものである

伊勢の入口はこの渡し場である
宮の渡しから七里あるので、七里の渡しと呼ばれていた

しかし、残念ながら、海(揖斐川河口)は殆ど見えない
伊勢湾台風(昭和34年)の後、大きな堤防が出来たからである

渡しの近くにあった本陣(下の写真)はそのまま高級料亭「船津屋」となり
脇本陣は高級料理旅館の「山月」となって営業している


(三重県桑名市)



42桑名宿・旧東海道



桑名といえば、焼き蛤である
今も蛤料理屋が街道沿いに軒を並べているが、残念ながら殆どが輸入ものとか

かつては、上質の蛤が多量に獲れた
桑名の沖合いは揖斐川と長良川、木曽川が伊勢湾の注ぐ合流点で
蛤の生息に適した水質と水温であった

桑名宿は、宮に次いで、東海道で二番目に旅籠が多かった
本陣2、脇本陣1、そして旅籠屋は120軒もあった

伊勢路の玄関口(一の鳥居がある)としても賑わってい



三重県桑名市




桑名城跡



桑名城跡、今は九華(きゅうか)公園として整備されている

一柳右近の築城、関ヶ原合戦の後は本多忠勝が城主となった
その後は、代々松平家が城主であった

建物は賊軍の城と言う事で
総て撤去され、堀だけがかつての面影を残している


二方が海に面し、その優美な姿から「扇城」と呼ばれていた


三重県桑名市



歴史を語る公園



桑名城の堀に沿って、洒落た名前の公園が出来ている
曰く、「歴史を語る公園」と

江戸から桑名までの街道筋を模して作られた公園で
写真は、東海道の出発点、日本橋である


(三重県桑名市)



矢田・火の見櫓






この辺は、矢田の立場のあったところだ
火の見櫓が残されている
戦災を免れ、古い町並の残っているところである


(三重県桑名市矢田町



安永の常夜灯




安永の立場に残された大きな常夜灯である
この背後の川、町屋川を渡ると、桑名市より四日市市の朝日町となる

伊勢に入ると、大きな常夜灯が目につく
伊勢参りの街道でもあったせいだろうか


(三重県桑名市安永町



43四日市宿

伊勢朝日駅





伊勢に入ると、今までは名鉄沿いの道であったが
近鉄沿いの道となる
近鉄というと、関東の者にとって、非常に遠くに来たと感じる
心なしか電車までが目新しく感じるから不思議だ
車も当たり前であるが、三重ナンバーである

(三重県四日市市朝日町




富田・善教寺





成徳寺善教寺(せいとくじぜんきょうじ)
この辺りはかつて、海戸尻と呼ばれていたところ
ここに地域の人々の信仰の場、海戸尻道場があった

この道場がこの寺の前身とか
寛正(1460年)のころの創建という
ここの阿弥陀如来は国指定の重要文化財になっている

(三重県四日市市富田



富田の巨大常夜灯



富田の米洗橋(米洗川)の袂にある巨大な常夜灯である
今でも、夜は電気が灯り、立派に機能している

おそらく、街道一大きい常夜灯であろう


(三重県四日市市富田)



海蔵川



海蔵川に架かる海蔵橋を渡ると、いよいよ四日市宿である
この橋の袂に、三つ谷の一里塚のあったところだ


三重県四日市市三ツ谷町




43四日市宿・諏訪神社



江戸時代の四日市宿は三滝川からこの諏訪神社までが
中心であった
本陣2、脇本陣1、旅籠98軒であった

旧東海道(写真左側)がアーケードになっているのには驚いた


三重県四日市市諏訪栄町



浜田城跡





浜田城跡である
現在は鵜森公園として整備されている


(三重県四日市市鵜の森)



近鉄四日市駅




浜田城跡の近くに、近鉄の四日市駅がある

今日は、駅近くのザプラトンホテルに泊まった


(三重県四日市市



44石薬師宿

日永の町並




日永の旧東海道である
伊勢参宮道の分岐(日永の追分)として知られていた

今でも分岐点には、道標や常夜灯が保存されている


(三重県四日市市追分



杖衝坂




日永の追分を過ぎ、内部(うっぺ)川を渡ると
いよいよ急坂で知られた杖衝坂(つえつきさか)である


写真の左上に石碑と芭蕉の句碑が建っている
古事記によると、日本武尊が東征の帰途、ここで杖をついて登ったというところだ

この坂を有名にしたのが、芭蕉である
芭蕉が、江戸より伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂を
登ろうとしたとき、余りに急坂で落馬したという
その時詠んだ句が
「徒歩(かち)ならば  杖つき坂を  落馬かな」


(三重県四日市市菜女が丘



44石薬師宿






石薬師は、宿場の南外れにある石薬師寺(写真下)の門前に開けた町

宿駅となってからは、本陣3、旅籠15軒の
街道では最も小さい静な宿場であった

次は庄野宿である


(三重県鈴鹿市石薬師



45庄野宿

上野の一里塚



石薬師宿を抜け、鈴鹿川の手前にある一里塚
両側にあった古木の榎は、伊勢湾台風(昭和34年)で倒れ
今の榎はその時に、新たに植えられたもの

それでも、遠くからも目立つ木である


(三重県鈴鹿市上野)




45庄野宿資料館



旧東海道沿いに旧家小林家の住宅

今は庄野宿の資料館となっている
建物は、鈴鹿市指定建造物になっている

庄野宿は鈴鹿川の自然堤防の上に発達した町である
広重の「庄野の白雨(はくう))」で知られたところ

白雨とは夕立のことである


三重県鈴鹿市庄野町



女人堤防碑と道標




庄野宿を出て、鈴鹿川の畔に
これより東神戸(かんべ)領の道標と、大きな女人堤防碑がある
ここ中富田村は、亀山領の東端で
神戸領との境界であった

鈴鹿川と安楽川の合流点で、水害に苦しめられていたが
南側の城下町の安全のため
堤防を築くことが禁じられていた

そこで、菊女が中心となり、女子の死出の仕事にしようと
女子ばかりで、人目を避け、夜に工事をして
6年で完成させた

しかし、罪を問われ、処刑される事になったが
家老の死を期しての諌めによる赦罪となった

そして、築堤の功により金一封を賜った由


三重県鈴鹿市中富田



中富田一里塚



川俣神社の東隣に一里塚があった
この近くに、「御馳走場」があった
大名行列の一行を接待する場所である

また、現在でも東百里屋(ともりや)と呼ばれている家がある
この屋号は、ここから江戸まで丁度百里(400km)であったからとか


(三重県鈴鹿市中富田)



小田・地福寺




かつては、この辺で多くの道心が修業していたので

道心街道と呼ばれていたところ


永禄11年(1568年)、信長の軍に焼き払われ
延宝5年(1677年)に再建された由

雨が酷く、暗かったので、常夜灯には灯がともっていた


(三重県鈴鹿市小田町



亀山・井田川町並




亀山市の井田川付近の旧街道
雨が酷く、今回の歩きはここで中断し
井田川駅より関西本線で名古屋に戻った

井田川の駅は無人駅で、駅舎も無かった
ホームのベンチで、雨具を脱ぎ、電車を待った


(三重県亀山市井田川

0510/0608

前へ 東海道目次 次へ


略 図

経路 青線部 36.17km

















悠々人の日本写真紀行へ移動します

写真日記掲示板

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他