旧東海道五十三次19、亀山〜関〜坂下〜土山〜水口宿/悠々人の日本写真紀行/Hitosh


悠々人の日本写真紀行へ移動します




旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅 19

46亀山宿47関宿48坂下宿49土山宿50水口宿




46亀山宿

井田川・現東海道



新横浜発新幹線6:18に乗り、名古屋で乗り換えて
井田川に着いたの9:10であった

JR関西本線の井田川駅を降りると、目の前が旧東海道である
しばらく歩くと、現東海道(国道1号線)と交差する

今回はここから再開である


(三重県亀山市井田川)



和田一里塚



元禄3年(1690年)に建立された和田の道標を過ぎると
長い上り坂となる

坂を上りきったところに、この一里塚がある
江戸より、なんと104番目(104里、416km)となる


三重県亀山市和田



46亀山宿町並





亀山宿は、石川主殿頭(とものかみ)6万石の城下町であった

宿場としては本陣1、旅籠20と規模は小さかった
鈴鹿峠を控え、隣の関宿や、坂下宿で泊まる人が多かった



三重県亀山市



亀山城多門櫓



丘の上に亀山城はあった
白壁に囲まれた城は、蝶の舞う姿に例えられ
粉蝶城と呼ばれていた由

今は、城跡公園となっている


(三重県亀山市)



47関宿

鈴鹿川




亀山を出て、大岡寺畷(たいこうじなわて)と呼ばれる道筋である
明日越える予定の、鈴鹿山地が迫っている



(三重県亀山市



47関宿町並














古代には鈴鹿の関のあったところだ

関宿は典型的な褌町である
街道に沿った細長い町で、古い町並が1.8kmにわたり続いている

最後の写真は、観音山より関宿を見下ろした写真である


(三重県亀山市関町



関宿西の追分



関の西の追分を越えると、鈴鹿峠は目の前である
この峠を超えるかと思うと、気持ちが昂揚してくる


(三重県亀山市関



48坂下宿

鈴鹿馬子唄会館



鈴鹿馬子唄会館の横の旧東海道である
日本橋から、三条大橋までの宿場名が書かれた
木の杭が道沿いに建てられている



(三重県亀山市坂下



48坂下宿



坂下宿は見事に寂れてしまった
かつての賑わいは嘘のようだ

宿場として栄えたが、他の産業は何も無かったため
古代に戻ってしまった典型的な例であろう

本陣跡や、脇本陣跡はすべて、畑になっている
記念の石碑のみがぽつんと立っていた

今回はここで、旧街道歩きを中断し
16:14発のバス(三重交通)で、関宿まで戻った

そして国民宿舎関ロッジに宿泊した


(三重県亀山市坂下



鈴鹿峠













翌朝、関宿よりバスで坂下宿まで戻った
旧街道歩きの再開である

坂下宿より、旧東海道は東海自然歩道に指定されている
旧街道というよりは、もう登山道であった

片山神社を過ぎると、かつての石畳が一部残されている
最後の急坂を上りつめると、いきなり視界が開ける
一面茶畑となっている

最後の写真は峠にある万人講大石灯篭である
この石を人力でここまで持ち上げたとのこと


(三重県亀山市関



49土山宿

近江路




鈴鹿峠を超えると、いよいよ近江(滋賀県)である

旧街道は、あちこちで、現東海道に寸断されているところだ



(滋賀県甲賀市田村



49土山宿








鈴鹿馬子唄の
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいのつちやま あめが降る」
と唄われたところだ


(滋賀県甲賀市土山



50水口宿

和田川




鈴鹿峠の上りは鈴鹿川沿いの道であったが
峠を超えると、この和田川沿いの道となっている


(滋賀県甲賀市土山



水口宿東見附(江戸口)



水口宿の江戸側の入口である
右手の旧街道を登ったところにある



(滋賀県甲賀市水口




水口宿町並







水口宿の町並
加藤越中守二万五千石の城下町でもあった

旧東海道は途中からアーケードになっている


(滋賀県甲賀市水口



水口石橋駅前




今回の徒歩の旅はここで中断した
ここから近江鉄道の車両が一両しかない電車に乗って
米原に抜けた

そこより新幹線で帰宅した

次回はいよいよ石部、草津、大津、そして京都三条大橋である


(滋賀県甲賀市水口



八日市駅前




近江鉄道で、米原に向かう途中で、ここで乗り換えた
すっかり、夕闇が迫っていた


(滋賀県八日市市)
0510/0608/1504

前へ 東海道目次 次へ


略 図

経路 青線部 26.48km

















悠々人の日本写真紀行へ移動します

写真日記掲示板

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他