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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅 20

水口城51石部宿52草津宿野路




水口城跡



新横浜発6:53発の新幹線で米原駅下車
近江鉄道に乗り換え、約1時間で水口石橋駅に着く
水口石橋に着いたのは10:37であった

旧東海道徒歩の旅もいよいよ今回が最後である
写真仲間のH氏が同行してくれることになった
まさに京都までの愉快な弥次喜田道中となった

駅のすぐ近くにあるのがこの水口城跡である
天昇13年(1585年)、秀吉の命により
水口岡山城が築かれたのが始まり

関ヶ原の戦いの後は幕府直轄の城となった


(滋賀県水口町城内)




横田の渡し跡





野洲川の横田の渡し跡である
巨大な常夜灯は街道1,2の大きさだ

旧東海道はここで寸断されている
渡しも橋も無いので、仕方なく下流の横田橋(写真下)を渡り
対岸の甲西町三雲に向かった


(滋賀県水口町酒入)



51石部宿

大砂川



不思議な光景である
旧東海道の上を遮るように川が流れている
天井川となっている大砂川である

トンネルの上に登ってみたら、ちゃんと川が流れているのには驚いた


(滋賀県甲西町吉永)




51石部宿







「京立ち石部泊り」と言われていた
京を立ち、最初に泊まる宿が、普通はここ石部宿であった
従って、宿駅として大いに賑わっていたところである

中の写真は高札場跡で、今は小公園となっている
下は石部宿の休憩所である


滋賀県石部




石部駅



JR草津線の石部駅である


今回はここで徒歩の旅を中断し、草津のホテルに泊まった
明日はここより再スタートである



滋賀県石部町




草津駅前




JR草津線の終点草津駅前である
写真右手は街道ふれあい広場となっている
草津宿と追分(旧東海道と中山道の分岐点)の大きな道標が立っていた

今夜は草津第一ホテルに泊まった


滋賀県草津市




石部の金吉



翌朝、ホテルを7:00に出て、JR草津線で
石部まで戻った

かつて、石部は金山で有名であった
ご存知堅物の代名詞「石部金吉」は、ここのことだ


旧街道は、金山跡をぐるっと迂回するようになっている


(滋賀県石部町石部)




茶屋本陣跡



石部宿と草津宿の中間点で、間の宿として栄えていたところ
写真は道中薬「和中散」を売っていた「ぜさいや本舗」で
茶屋本陣にもなっていた家である


(滋賀県栗東市六地蔵)




金勝川土手より



旧東海道はここで金勝(こんぜ)川、目川池にぶつかり
クランク形に曲がっている

写真はその金勝川の土手の上から旧東海道を見下ろして撮影したもの
左手に目方一里塚跡碑のあるところである

右手後方に霞んだ山は近江富士として知られた
三上山である
俵藤太の大百足退治伝説のある山である


(滋賀県栗東市目川)



52草津宿


草津川



この草津川に架かる草津川橋を渡ったところである
左手の道が旧東海道で
いよいよ草津宿入りである


滋賀県草津市草津1丁目)




草津追分見附



草津宿に入ってすぐの所にあるのが
この追分道標である
左、中山道美のぢ、右東海道いせみちと書いてある

京都よりの江戸への道はここで中山道と東海道に別れるところである


滋賀県草津市草津1丁目




52草津宿本陣跡





草津宿脇本陣




旧旅籠、野村屋



草津宿の本陣は田中七左衛門本陣である
本陣はもう一つあったが、今は無い

脇本陣は、草津市観光物産の展示販売をを行っている
野村屋は江戸時代後期より続いている旅館である


滋賀県草津市草津2丁目)



野 路

野路一里塚跡





現在上北公園になっている
野路は江戸時代になり、宿駅からはずれ寂れたが
平安時代から鎌倉時代までは、野路の宿として栄えたところである



滋賀県草津市野路町




野路・荻の玉川




平安時代、源俊頼が
「あすもこん 野路の玉川荻こえて 色なる波に 月宿りけり」
と詠んだところだ

かつては、泉の湧水量も多く、形も遥かに大きなものであった



滋賀県草津市野路町
0510/0608

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略 図

経路 青線部 26.05km















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