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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 10

碓氷峠18軽井沢宿軽井沢駅


作者 Hitosh




碓氷峠


碓氷峠・熊野神社





碓氷峠の茶屋で休憩した後、目の前の熊野神社に参詣した

この熊野神社は上野と信濃の国境の上にあり
本宮、新宮(信濃側)、那智宮(上野側)の三社が13世紀頃より
並んで、鎮座している

この旧中仙道の碓氷峠は
中世(鎌倉時代)から利用されるようになった

なお、古代の上州と信州を結ぶ道は
入山峠越え(今の碓氷バイパス)であった


(長野県軽井沢町)


碓氷峠見晴台







熊野神社より旧碓氷峠の見晴台に行った

元の城山大王塚で、太平記に記載されている
足利、新田氏の古戦場であった

この広い古戦場を
名古屋の豪商、近藤友右衛門が
大正5年に整備し公園としたものである

眼前に重畳たる上信越国境の山々が
見事に一望出来るところである

3枚目の写真は、インドのタゴール像である
タゴールが軽井沢の三井邸に滞在して
日本女子大の学生に講義をした記念という

軽井沢にはこの手の銅像が沢山作られている


(長野県軽井沢町)


軽井沢遊歩道







この峠と旧軽井沢(軽井沢宿)を結ぶ遊歩道が
ほぼ旧中仙道と重なっている

この道を約1時間半下ると吊橋(2枚目の写真)がある
この橋を渡ると、樹間に別荘が点在しているところとなる


(長野県軽井沢町)

18軽井沢宿

日本聖公会



遊歩道より車道に合流し
矢ヶ崎(やがさき川に架かる二手(にて)橋を渡ると軽井沢宿である

橋を渡ると右手にあるのが、この日本聖公会)のショウ記念礼拝堂がある
右手は宣教師アレキサンダー・クロフト・ショウの銅像である

明治20年、ショウは軽井沢宿のはずれのここで
避暑のため、廃宿を借りて滞在した

そして翌21年、旅館「つるや」の斡旋で、旅館の廃材を使って
木造2階建ての西洋風別荘を建てた
これが、軽井沢での別荘第一号となった

現在、ショウハウスとして復元されている
かつての軽井沢宿を、近代の軽井沢別荘地としてしまった人でもある


(長野県軽井沢町)


旅館・つるや



前述のつるや旅館である
江戸時代までは茶屋を営んでいたが、明治から旅館に転業した

明治中期以降は文士の宿として繁盛した
今も営業している老舗である


(長野県軽井沢町)


軽井沢宿町並(旧軽井沢銀座)







つるみ屋の前あたりから、旧中仙道は煉瓦を敷き詰めた道となっている

旧軽井沢銀座として有名になっているが、ここが元の軽井沢宿の中心である
今は全くその面影は無い

かつては、本陣1、脇本陣4、旅籠21、茶屋12軒もあり
飯盛り女は200人を超えていた

碓氷峠を控え、賑やかな宿場であった


(長野県軽井沢町)


追分



この手前に軽井沢の一里塚があった
この追分を左に行くとJRの軽井沢駅である

旧中仙道は、この道を右に行くことになる
ここで標高は950mであった

避暑地に相応しい涼風が吹いていた


(長野県軽井沢町)

旧街道







旧中仙道沿いには洒落た店が多い

登山着姿の我々は気が引けたが
店に入り、コーヒーを飲んだ

そして、次の19番目の宿場沓掛宿(現中軽井沢)の手前で
旧中仙道を離れ、信濃鉄道沿いを
JR軽井沢駅まで戻った


(長野県軽井沢町)

軽井沢駅


JR軽井沢駅





上が現在の軽井沢駅で、下の写真が以前の駅舎である
旧軽井沢駅舎記念館となっている

私が、軽井沢に良く来ていた時とは
駅前の感じ全く違い、超近代的に変貌していた


(長野県軽井沢町)


碓氷峠方面



JR軽井沢駅より今日越えてきた碓氷峠方面の写真である

旧中仙道六十九次徒歩の旅で
初めて新幹線を利用しての帰京となった

と言うより、軽井沢からでは在来線が廃線となり
新幹線を利用せざるを得ないからであった

日本橋を出発して、ここまで、徒歩で9日間掛かったが
新幹線では、僅か1時間10分で東京に着いてしまった


(長野県軽井沢町)
0606/0609

歩行略図

鉾距離 5.1km
(青線部を歩行)



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作者 Hitosh