悠々人の日本写真紀行へ移動します




旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 44

瑞穂・番場〜55美江寺宿〜平野井川


作者 Hitosh



瑞穂


糸貫川・糸貫橋





河渡宿を抜け、番場のお地蔵さんの前を左に曲がると糸貫川に架かる糸貫橋となる
正面の冠雪した山は伊吹山である

河渡から糸貫川までの道は生津畷(なまづなわて)と呼ばれていたところだ

糸貫川は長良川の支流である
そして、次ぎに渡る川が五六川(ごろくがわ)という
是は、次の美江寺宿が日本橋を入れて56番目となるから
命名されたという

この辺は、今でも古代の条里制跡が残る所として知られている
東西南北に一直線に畦道で田圃が区切られている


(岐阜県瑞穂市本田)


55美江寺宿


樽見鉄道・美江寺踏切



広い田圃の中の道を歩いていると正面に集落が見えてきた
54番目の宿場・美江寺(みえじ)宿である

その手前に走っているのが樽見(たるみ)鉄道(樽見鉄道株式会社)である
この踏切の右手すぐの所に美江寺駅がある

樽見鉄道は大垣と樽見を結ぶ線である


(岐阜県瑞穂市)



美江神社



美江寺宿に入るとすぐ右側に美江神社がある
この美江が地名のもともとの由来となっている

神社境内の奥に小さな観音堂のみが再建されている

もとの観音堂は美江寺観音と呼ばれ
元正天皇により、養老3年(719年)に建てられたものだ

美江寺は当時大いに栄えたが、斉藤道三が
寺を稲葉山城下に移設したため廃寺となり、地名だけが残さている


(岐阜県瑞穂市)



55美江寺宿







美江神社の前で、旧中山道は直角に右に曲がっている
この桝形が美江寺宿の入口となっている

本陣1、脇本陣0、旅籠屋11軒の宿場であった
中の写真は庄屋跡(庄屋和田家)で、下の写真が美江寺本陣跡(右の石碑)である


(岐阜県瑞穂市巣南町)


犀川





美江寺宿を出ると、旧街道はこの犀川沿いの道となる
小さな川であるが、水が綺麗であった

上の写真の樹木は富有柿である
富有柿はここが原産地で、全国に広まったという

前方には伊吹山がくっきりと見えた


(岐阜県瑞穂市巣南町)


揖斐川・鷺田橋







やがて、目の前に揖斐川の堤防が眼に飛び込んでくる
かつての流路ははっきり解らないという

此の辺一帯は低地で、木曾三川(木曽川、長良川、揖斐川)が
平行して流れ、あるいはくっ付きと始末に終えない暴れ川であった様だ

当然橋は無く、船で渡ったという


(岐阜県瑞穂市巣南町)



小簾紅園・和宮記念公園





揖斐川を渡ると左手に小簾紅園(おずこうえん、和宮記念公園)がある

説明版によると、小簾紅とは、和宮が呂久川(ろくがわ、旧揖斐川)を御座船で渡った時
玉簾越しに眺められた、舳に立てた紅葉の一枝のことを指すという

この時の御歌が
「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」

その紅葉一枝はここ馬渕孫右衛門の庭のものであった
この庭の先が呂久の渡し跡である

広く、手入れの行き届いた庭園であった


(岐阜県瑞穂市巣南町呂久)



平野井川



揖斐川支流の平野井川に架かる新橋を渡ると
大垣市である(橋の上は安八群神戸(ごうど)町)

旧中山道は、この川の右岸(写真の左側)を歩くことになる


ここまでくると、次の56番目の宿場・赤坂宿はもう直ぐである


(岐阜県大垣市大島町)
0702/0703


歩行略図

歩行距離 7.55km
(青線部を歩行)




前へ 中山道(2)目次 次へ







悠々人の日本写真紀行

北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

作者 Hitosh