悠々人の日本写真紀行へ移動します

旧山陰道 41

33益田宿




石見・益田


益田市・木部町海岸



浜田市を抜けると、益田市に入る
益田市最初のJRの駅は鎌手である

写真は鎌手を過ぎてすぐの益田市木部(きべちょう)である
石州瓦の甍が見事であった


(島根県益田市木部町)



益田・遠田海岸



益田市遠田の海岸である
中央突端は鵜ノ鼻と呼ばれているところだ

日本海に突き出た、この小さな半島に50基余の円墳や前方後円墳が
築かれているとのこと(鵜ノ鼻古墳群)


(島根県益田市遠田町)

33益田宿


益田川・新橋





益田川に架かる新橋を渡ると、山陰道33番目の宿場益田宿に入る

中世の益田氏の城下町
この益田川の谷口に宿駅としても栄えたところだ

益田川は益田市美都郡の春日山(989m)山嶺を源流とする川で
市内の中須町と久城町の境界から日本海に流入している

この川の左岸に発達したのが益田宿である


(島根県益田市東町)



益田・萬福寺








益田川の右岸にある益田萬福寺

応安7年(1374年)に領主の益田兼見によって、ここに移された時宗の道場である
元は中州にあった安福寺をここに移築し、萬福寺と改めた

下の写真は、萬福寺の雪舟庭園

雪舟が益田に滞在時に作庭したもの
見事な池泉式回遊兼鑑賞式築山泉庭となっている

本堂は、改修はされているが当時のままという
この本堂と、庭園、絹本著色二河白道図(鎌倉時代末期)が国の指定文化財となっている


(島根県益田市東町)



本郷園、徳川無声生誕地碑






益田川に架かる新橋を渡ると右手の益田小学校敷地(本郷園)に
徳川無声生誕地の説明板あり

大正時代に活動写真弁士として一世を風靡し
その後、ラジオ、テレビで活躍した徳川無声は
明治27年にここ益田市本町で生まれたとのこと

益田市制10周年記念(昭和37年)に造られた
益田音頭の作詞者でもある


(島根県益田市本町)



益田市歴史民族資料館




道路を挟んで右側に益田市歴史民族資料館

大正10年に建てられた郡役所を改修したもので
歴史民族の文化遺産を保存展示している

なお、この建物は国の登録文化財に指定されている


(島根県益田市本町)



七尾山、益田七尾城址






七尾山(標高120m)である
この山全体が益田七尾城であった

増田氏の先祖、藤原定通(国兼)は藤原鎌足の子孫と云われ
国司として石見上府に赴任し、任期を終えた後も都に帰らず土着した

曾孫の兼高(益田氏を名乗った最初の人)が源平の戦いで
武功を立て、石見の押領使に任じられた

建久3年(1192年)に上府からここに本拠を移し
翌年七尾城を建てたという

その後、陶氏、毛利氏に与し
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後
西軍の毛利氏は大幅な減封となった

益田氏の当主益田元祥は毛利氏に従い
長門須佐へ移ることになり、約400年続いたこの七尾城は廃城となった

なお、当時の大手門が、益田川を挟んで反対側の
医行寺の総門として残されている


(島根県益田市七尾町)


住吉神社





益田七尾城の一の丸跡には住吉神社がある

七尾城の築城と共に、上府から一宮に移された神社で
現在の社殿は漢文4年(1664年)に改築されたもの


(島根県益田市七尾町)



内堀、現花菖蒲園



かつての内堀は、整備され花菖蒲園となっている
この先は、益田市の水道の水源地となっているところだ


(島根県益田市七尾町)



暁音寺、枡形





益田七尾城から益田宿に入る

この寺は暁音寺(ぎょうおんじ)で、山門と鐘楼が見事な寺である
この寺の前の道(下写真)が、旧宿場特有の
見通しを悪くするために作られた、枡形となっているところだ

なお、益田では枡形とは言わず
「鍵曲がり」と呼んでいた様だ

現在は道が拡幅され、弱い枡形であるが
その面影が残されている


(島根県益田市七尾町)



益田宿町並み







この辺がかつての宿場の中心地であった

中世は城下町で、その後は宿場町、商業の中心地として栄えて来た


(島根県益田市本町)



JR益田駅前






さらに進むと、右手にJR益田駅がある
山陰本線の駅で、また山口線の終着駅である

山陰道は、ここで日本海から離れ
JR山口線に沿って34番目の宿場・津和野
そして、35番目の山口を経て山陽道の小郡に合流する

長かった山陰道も、やっと先が見えてきた感じであった


(島根県益田市駅前町)



高津川



益田市西端を流れる高津川

高津川は中国山地の平家ヶ岳(へいけがたけ)を源流とする1級河川で
支流を含めてダムが一切無い川として知られている

また、日本有数の清流としても知られ、中・上流の鮎は古くから有名であった
毛利家にも、益田家から良く献上されたという

益田はこの高津川と益田川で出来た沖積平野の上に発達した町であった

この高津川沿いに南(写真手前方向)に進む道が山陰道(国道9号線)で
この川を渡り、西(写真左方向)に向かう道は
北浦街道(国道191号線)である

本来は山陰道の34番目の宿場津和野を行くのであるが
今回はここで北浦街道(赤間関街道)に寄り道し、旧長門国の萩に向かう
津和野はその後に向かう予定である

なお北浦とは、長門市の青海島(おうみじま)から
下関市北部の角島(つのしま)を中心とする地域を指している


(島根県益田市中島)

0804/0807/0909


前へ 目 次 次へ


略 図

経路 青線部











悠々人の日本写真紀行

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他