悠々人の日本写真紀行へ移動します

旧山陰道 45

石見・34津和野宿




石見・34津和野宿


津和野駅前





長かった日本海に別れを告げ
石見の益田宿より高津川沿いを遡上する

日原で支流の津和野川沿いに入り
さらに遡上すると、山陰道34番目の宿場・津和野宿となる

津和野川は山口県と島根県の国境にある十種ヶ嶺(とくさがみね、989m)を
源流とする川で、津和野を縦貫し、途中日原で高津川に合流して
益田より日本海に流入している

津和野はかつて野之郷(ののごう、能濃郷とも)と呼ばれていた
鎌倉時代の弘安5年(1282年)吉見氏が入封し津和野と改称した

江戸時代は因幡国鹿野より移封してきた亀井氏4.3万石の城下町であった

写真は津和野川を渡りすぐの津和野駅付近である
この辺から南側がかつての津和野宿であった


(島根県鹿足群津和野町)



津和野宿入口付近





下の店は津和野の旧称能濃(のの)郷の「能濃」を店の名前にしている
郷土料理うずめ飯が名物とか

地元で採れた山菜と蒲鉾、豆腐等を小さく切り
昆布だしで煮て、塩、醤油で味付けした具を汁と共に
茶碗の底に入れ、その上に炊き立てのご飯を入れる

食べる時に、良くかき混ぜてから食べる郷土料理とのこと

粗末な具を憚って、茶碗の底に埋めて人に出すため
うずめ飯と云われるようになった由


(島根県鹿足群津和野町)


鎮守と観音堂







村の鎮守と観音堂

観音堂は亀井氏が移封後に建立された
幸盛寺の境内にある御堂で、観世音菩薩を本尊としている

菩薩追悼のため、千日詣で町内の人々が、この観音堂をお詣りし
その時踊ったのが津和野の盆踊りの始まりとか

お堂の横の説明に津和野踊り(盆踊り)発祥の地と記されてあった


(島根県鹿足群津和野町)


妙寿寺、小藤文次郎碑






妙寿寺、さらに進むと右手に津和野生まれの小藤(ことう)文次郎顕彰碑

小藤文次郎は日本地質学の始祖と言われた人
東京帝国大学の地質学、及び採鉱学の最初の卒業生(明治12年)で
その後ドイツ留学の後、東京帝国大学の教授となった

小藤石(kotoite、Mg3(BO3)2)は、初めて日本人の名前がつけられた鉱物である


(島根県鹿足群津和野町)



津和野宿・本町町並







上写真右手の建物は橋本酒造店、2枚目写真の左の建物はささや呉服店
3枚目写真は俵種苗店で、今でも営業している

この辺が津和野宿の中心(本町)であった


(島根県鹿足群津和野町本町)

津和野美術館路地




津和野美術館の脇の道

江戸時代の蝋の原料となる櫨(はぜ)の収蔵庫を利用した美術館で
郷土に伝わる美術品を多数展示している


(島根県鹿足群津和野町本町)


土産物店






上写真右建物は、古くからの和菓子処、三松堂菓心庵
下写真左は源氏巻きの幟が立っている沙羅の木(土産物屋、食堂)である

源氏巻きとは
狐色に焼いたカステラのような薄い生地で餡を包んだ長方形のお菓子で
10軒程の店が販売している、津和野の銘菓

この辺一帯は観光客向けの土産物店が多いところであった


(島根県鹿足群津和野町本町)



民家とカトリック教会





犬矢来のある立派な民家(個人宅)と津和野カトリック教会

毎年5月3日の乙女峠祭りには
この協会から野外ミサの行列が乙女峠まで進む

乙女峠は、明治元年に、長崎の浦上から153名のキリシタンが
連れて来られ、改宗を迫られたが、信仰は厚く
36名が殉教したところである

この後は、武家屋敷のある津和野城下町(殿町)へと進む


(島根県鹿足群津和野町殿町)
0804/0807


前へ 目 次 次へ


略 図

経路 青線部











悠々人の日本写真紀行

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他