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旧山陰道 47

津和野町・野坂峠〜周防・35山口宿




石見・津和野


石見・周防国境、野坂峠





石見国の津和野宿を抜けると、いよいよ山陰道最後の周防(すおう)国に入る

この野坂峠(350m、のさかだおとも呼ばれた)が石見と周防の国境となっているところだ
現在の島根県津和野町と山口県阿東町の境界となっている

かつては峠を挟んで津和野藩と長州藩の国境の番所があった
なお、現在の国道9号線(山陰道)はトンネルの中を通っている

上の写真は峠の途中より津和野宿を見下ろした写真で
下の写真は野坂峠を越えたところにある
道の駅、願成就(がんじょうじゅ)温泉の入口付近である

背後の形の良い山は野坂山(640m)である
願成就温泉は日帰り入浴施設として平成7年にオープンした


(島根県鹿足群津和野町、山口県阿東町徳佐上)


周防・阿東町


徳佐八幡宮、三谷集落





阿東町は、萩より日本海に流入する阿武川の上流地域の町で
昭和30年、嘉年(かね)、徳佐、地福、篠生、生雲の5村が合併して出来た

阿東は阿武郡の東部の意である

その中心は徳佐で、山陰道(石州街道)沿いの市場町として
栄えたところで、旧称は中徳佐であった

上の写真はその徳佐の鎮守・徳佐八幡宮である

かつては国の「名勝徳佐桜」として指定を受けていた

文政8年(1825年)に氏子により植えられた桜が見事であったが
その後、古い桜は枯死し、国の指定は解除されたと

今の桜は二代目である
それでも桜の名所であり、枝垂れ桜は町の天然記念物に指定されている

下の写真はさらに下ったところの三谷集落である
そして阿東町の南端にある木戸峠(309m)を越えると山口に入る

いよいよ、山陰道最後の宿場山口宿である


(山口県阿東町徳佐、三谷)

周防・35山口宿


上竪小路



山陰道最後の宿場・山口宿の入口付近である
前方のこんもりした森は八坂神社である

山口宿の北端の上堅小路(たてこうじ)に鎮座する八坂神社は
正平24年(応安2年、1369年)、大内広世(ひろよ)により京都祇園感神院、
現在の八坂神社より勧請し建立された

山口は、この広世が正平15年(延文5年、1360年)周防、長門、石見3国の守護となり
一の坂川扇状地の上に、京都を模した町造りを行ったのが始まりである


(山口県山口市上堅小路)


一の坂川






一の坂川は山口の中心を流れる川である

と言うより、大内氏はこの川を京都の鴨川にみたてて
町割りを行った

三方を山に囲まれ、この一の坂川を中心にして作られた町は
室町時代には西の京都とまで呼ばれる様になった

また、この川は山口ゲンジボタル発祥の地として
国の天然記念物に指定されており
桜の名所ともなっている

この一の坂川は椹野(ふしの)川に合流し、周防灘に流入している
山陰道を歩いていて、川の河口が始めて瀬戸内に変わった

今までは、総て日本海であった


(山口県山口市上竪小路)



一の坂川・伊勢橋







一の坂川に架かる伊勢橋(手前の橋)である
北側には古城ヶ岳(367m)、鴻ノ峰(338m)、兄弟山(257m)が
市街地の直ぐ側までせまっているところだ

この鴻ノ峰にかつて高峰(こうのみね)城があった
しかし、毛利氏になり、本拠地を萩に移した為、廃城となり
また町も衰微していった

文久3年(1863年)、毛利氏は藩庁をここ鴻ノ峰南麓に移したため
再び発展し、現在に到っている

かつて藩庁があった跡は、今は山口県庁となっている


(山口県山口市上竪小路))

武徳殿




現国道9号線(山陰道)に面してある寺院風の大きな建物は
大日本武徳会が昭和5年に建てた武術、武道の道場で
当時のものが、そのまま残されているのは珍しい

現在は山口県警察体育館として利用されている


(山口県山口市上後河原)


洞春寺山門






武徳館の前より北部の山間部に行く
丁度一の坂川を遡上する感じとなる

かつて萩往還は、現在の道とは違い、この一の坂川沿いを遡上して
坂堂峠(510m)を越えていた

この右岸に洞春寺(とうしゅんじ)がある
応永11年(1404年)に大内氏26代盛見が開基した
国清寺を前身とする古刹だ

創建当初の山門(上写真)が残されており
国の重要文化財に指定されている

この辺一帯が香山(こうざん)公園となっており
毛利家代々の墓所のあるところである


(山口県山口市香山町)



香山公園、紙本榮一像





香山(94m)一帯は香山公園となっている
洞春寺や毛利家墓所、そして瑠璃光寺があるところだ

瑠璃光寺前の駐車場の一画に
紙本榮一の銅像があった

明治から昭和にかけて剣聖と呼ばれた剣道、居合道、杖道の範士である
範士とは、大日本武徳会、今の全日本剣道連盟の与える称号の最高位である


(山口県山口市香山町)



瑠璃光寺・五重塔、大内弘世像





瑠璃光(るりこう)寺の五重塔、国宝である

嘉吉(かきつ)2年(1442年)、大内氏26代盛見が
兄義弘の菩提を弔う為建立したもの

高さ31m、桧皮葺の屋根の勾配が緩やかで
各層の軒の出が深いため、全体が細く見えるのが特徴とのこと

下は山口を開いた、大内氏24代弘世の馬上像である


(山口県山口市香山町)



瑠璃光寺







応永2年(1395年)、大内氏25代義弘がここに香積(こうしゃく)寺を建立した

しかし、関ヶ原の戦い後、毛利氏が萩に移動した為
寺も共に移動し、しばらくは五重塔だけがここに残されていた

その後、元禄3年(1690年)、香積寺の跡地に
陶氏6代弘房の菩提寺である瑠璃光寺がここに移り、現在に到っている


(山口県山口市香山町)



若山牧水歌碑



若山牧水の歌碑で
「はつ夏の 山のなかなる ふる寺の
古塔のもとに 立てる 旅人」
と刻まれている

明治40年、牧水が東京から故郷の宮崎に帰省の途中
ここに立ち寄り詠んだ句である


(山口県山口市香山町)



雪舟像



背後の山裾に雪舟の住んでいた雲谷庵があった
雪舟は備中の生まれであるが
40歳前後に山口に居を構えた

応仁元年(1467年)には、大内氏の遣明船に乗って明に渡っている
帰国したのは2年後の文明元年(1469年)であった

その後、各地を廻り、文明18年(1486年)頃、再び山口に戻ってきている
そしてここで永世3年(1506年)87歳で歿
当時としては、長命の人であった


(山口県山口市香山町)

0804/0807


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