悠々人の日本写真紀行へ移動します

旧山陰道 17

伯耆琴浦町・19赤碕宿




琴浦町・赤碕


赤碕港/菊港





八橋宿を出ると、すぐ赤碕港となる
赤碕港は本港(東港、旧亀碕港、1枚目写真の岬の奥)と
菊港(上写真)、西港の三つに分かれている

その中で古代より続いている港は、この菊港である

享保・寛政年間(1716〜1789年)に築港の記録が残されている
また、古代の延喜式の清水駅と比定されているところでもある

藩政期には船番所が設置され、大坂に年貢米を回送する藩倉が立ち並び
北前船も多く係留されていた

しかし、この菊港と西港は水深が浅く、船舶の大型化に対応出来ずにいた
明治26年に新たに東港が築港され、大正年間に完成
それ以後は、東港が赤碕港の本港となった

2枚目の写真の突堤の先端にある3体の像(写真中央上部)は
「波しぐれ三度笠」とのこと

白御影石で作られた高さ4・3mの石像で、昔の旅姿をイメージしたものとか
(彫刻家流政之作)


(鳥取県琴浦町赤碕)



菊港家並み





菊港近辺の家並みである

上の写真の社は菊港に面した小さな丘の上にあった


(鳥取県琴浦町赤碕)



19赤碕宿







菊港より旧山陰道に復帰する
この辺が山陰道19番目の赤碕宿があったところだ

赤碕は、矢筈山(やはずがせん、615m)を源流とする
勝田川流域の町で、中心のこの辺が延喜式の清水駅があったという

1枚目の写真は天ノ神奈斐(あまのかんなび)神社で
宿場の鎮守である

ここの祭りで、げげの鬼太郎の「目玉親父」の山車があるとは驚いた
作者の水木しげる氏が鳥取県境港市出身とのこと


(鳥取県琴浦町赤碕)



赤碕港、磯





赤碕港の菊港の西港の間は磯となっている

この磯沿いの道を西港に向かった


(鳥取県琴浦町赤碕)



赤碕港/西港







赤碕港の西港である

こちらも水深が浅いため、小型漁船のみが係留されていた


(鳥取県琴浦町赤碕)


河原地蔵





赤碕港/西港を背にして大きな地蔵尊が建っている

縦43mの安山岩製の石像で、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ
山陰では珍しい大型の地蔵尊だ

化粧川河口が現在より広く、河原となっており
そこにあったことから河原地蔵と呼ばれるようになったとか

延喜4年(1747年)に建立されたもので
琴浦町の指定文化財となっている

右は戦歿諸英霊と刻まれている


(鳥取県琴浦町赤碕)


赤碕町並み







旧山陰道より船上山への道が分岐(1枚目写真)している

船上山(せんじょうさん)赤碕線(県道289号線)である
道沿いに古い町並みが残されていた

船上山(615m)は後醍醐天皇の行宮(あんぐう)跡があるところだ

後醍醐天皇が隠岐の島から脱出して
新政府復活を誓ってここに立て篭もったとのこと

「元弘の変」の舞台となったところである


(鳥取県琴浦町赤碕)


JR赤碕駅前通り





JR赤碕駅前通りである

なかなか落ち着いた雰囲気の町である


(鳥取県琴浦町八橋)


花見潟墓地





駅前通を過ぎると、道は海岸線に出る
地名の赤碕とは、海食崖が海に突き出す地形の意とか

そんな感じが良くわかるところだ

眼下一面に、無数の墓が建っているのには驚いた
花見潟墓地と言い、自然発生的に出来た墓地で
西日本最大級の規模とのこと

墓地の一角には高さ3mの安山岩で作られた
赤碕塔と名付けられた宝塔が建っている
鎌倉時代末期のものとか


(鳥取県琴浦町赤碕)


旧街道





花見潟墓地の上を通って行くと次は20番目の宿場下市宿となる

崖の上の道であった


(鳥取県琴浦町赤碕)
0802/0804/2104


前へ 目 次 次へ


略 図

経路 青線部












悠々人の日本写真紀行

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他