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旧山陰道 39

石見・浜田城




石見・浜田城


浜田護国神社





浜田市の中心街殿町の交差点を抜けると、左側に護国神社の鳥居がある
護国神社の境内は、かつては浜田城の二ノ丸のあった処である

なお、浜田城は亀山城とも呼ばれていた


(島根県浜田市殿町)



二の丸跡・護国神社





かつての二ノ丸は、今は護国神社の境内となっている

護国神社は、明治維新後の戦没者28000柱を祀っっている

上の写真は、戦前の教科書に載っていた
地元浜田歩兵第21連隊に所属していたラッパ手・木口小平のブロンズ像である
敵の弾を受けてもラッパを放さなかったいう

島田城址の入口は、神社の裏側となっている


(島根県浜田市)

浜田城址







二の丸から出丸、本丸の上り口にある門(1、2枚目写真)は
かつての津和野藩屋敷、浜田県庁に使われた門である

ここから本丸跡までは、石段となっている

浜田城は北は松浦湾、西から南は浜田川の天然の堀を利用して
標高70mの丘の上に建てられている

元和5年(1619年)、伊勢松江の城主吉田重治が、5万9000石で浜田に入封
1年間の突貫工事で築城したという
その後、城主が何回か変わり、最後は松平家であった

幕末の慶応2年(1866年)、大村益次郎の率いる長州軍に破れ落城した

3枚目の写真は現地案内板に描かれた城郭図である
浜田城の縄張りは、本丸、二の丸、三の丸、出丸で構成され
本丸には天守閣の変わりに三層櫓が建っていた


(島根県浜田市殿町)



本丸、出丸石垣






出丸、本丸の石垣である
城址はこれら石垣を残すのみとなっている


(島根県浜田市殿町)



本丸跡






浜田城本丸跡である
ここにはかつて、本丸と三層櫓が聳えていた

楚石が一部残されているだけであった


(島根県浜田市))



松原浦








本丸跡よりの眺望である
上の写真は松原浦(湾)である

天然の地形を利用した良港で
かつては、北前船が多数寄港していたところだ

浜田藩の最大の流通拠点であったところである

3枚目の写真は、松原浦の奥の港町である
今でも当時の面影が残されているところだ


(島根県浜田市松原町)



浜田港




本丸跡より南を見た写真である

こちらは、現在の浜田港で、水産都市浜田の面目躍如たるところである

浜田港は、島根県最大の港で、また国際港でもあり
浜田と韓国釜山間の定期コンテナ船航路の発着所ともなっている

大型船が係留できる埠頭が2つ築かれている


(島根県浜田市)

(0804/0807)


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