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旧山陽道1

周防・小郡〜長門・船木宿




周防・小郡

JR新山口駅前(旧小郡駅)





前回は旧丹後国・宮津から旧山陰道を
但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、そして周防と下ってきて
ここ小郡(おごおり)で旧山陽道に合流した

今回は、山陰道と山陽道の合流地点である
この小郡から旧山陽道の終点である長門・赤間関までの写真紀行である
江戸・日本橋を西に向かって出発して、いよいよ本州最後のコースとなる


昨晩は岩国に泊まり、JR新山口(旧小郡駅)に到着したのは朝の8:30であった
いよいよ旧山陽道入りである

正面の山は雨乞山(258m)と禅定寺山(392m)で、この山裾を左に進む
禅定寺山には、役の行者を祀った山ノ上神社がある


(山口県山口市小郡)

長門・宇部

宇部市・厚東



旧山陽道を小郡から宇部市の山中をに入る
いよいよ本州西端の旧長門国入りである

山中は鷹ノ子山(222m)と黒見山(122m)に挟まれた
文字通りの山間の集落(半宿)であった

山間の道を抜けると目の前が開け、厚東(ことう)に入る

厚東は秋吉台の石灰岩石地帯を縦断して
宇部市市街地の西側より周防灘に流入している
厚東川の中流域の古くからの村である

この厚東は、古代から厚狭(あさ)郡の東側の意味で
用いられている地名である

なお、宇部市は、江戸時代は小さな寒村であったが
江戸時代に始まった石炭採掘が
明治中期以降の海底炭田の開発で本格化して
現在は鉱工業都市となっている


(山口県宇部市厚東)

長門・船木

宇部市・船木







厚東(ことう)から船木峠を下ると
旧宿場である宇部市船木(ふなき)に入る

船木宿は、有帆(ありほ)川中流域の河川平野(小盆地)に発達した町だ
元厚狭(あさ)郡船木町で、郡の行政、経済の中心であった

しかし、地元の反対で山陽本線が町を大きく外れて南側に
明治34年に開通したため、郡の中心は山陽小野田市の厚狭(あさ)に移ってしまった

船木町は、昭和30年に合併して楠木町となり
さらに平成16年に宇部市に編入され、現在に到っている


(山口県宇部市船木)


旧船木宿町並み









この辺が近世の船木宿の中心である

1枚目の写真は、「旅人荷付場跡」(問屋場のことか)である
江戸時代、駅馬15、人足10数人が用意されていた

船木は所謂本宿で、街道筋には旅籠や町屋が並び
御茶屋(本陣)、勧場(かんば、役所)や御番所等が設けられていた


(山口県宇部市船木)


大木森神社






さらに進むと、右手に大木森(おおぎもり)神社がある
祭神は住吉大明神で、海上航路の安全を守護する神である

街道に面して住吉神社の特徴でもある高灯篭(常夜灯)が建っている
これは海上安全の灯台を擬製したものである

なお、大木森神社は文化11年(1814年)建立とのこと
高灯篭や反橋、玉垣が作られている

ここにあった大きな楠木を切って
軍船48艘を造ったことから、此の辺を船木と呼ぶようになったとか

鳥居の右手には芭蕉の句碑あり
「春立って まだ九日の 野山哉」


(山口県宇部市船木)



船木宿出口、茶屋バス亭







船木宿の出口付近
バス停(船鉄バス)の名前が茶屋前であった

この辺に茶屋(本陣)があったようであるが、遺構は何も無かった


(山口県宇部市船木)


有帆川、船木大橋







有帆川に架かる船木大橋を渡り、次の宿場厚狭に向かう

1枚目写真右手の建物は船木中学校である

2枚目の写真は有帆川の下流側を見たものだ
この有帆川は山口県美祢(みね)市伊佐町奥万倉を源流として
宇部市の万倉、船木地区を南流して
山陽小野田市高泊で瀬戸内海の周防灘に流入している

3番目の写真は上流側を見たものだ
この先に、宗方温泉がある


(山口県宇部市船木)
0806/0808


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略 図

経路 青線部











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