旧山陽道 4
吉田宿〜吉田一里塚
長門・下関
吉田宿口道標
厚狭宿より、桜川・寝太郎橋、大正川・石丸橋を越え
石炭(いしずみ)、そして蓮台寺坂を下ると吉田宿に入る
写真はその入口付近だ
いよいよ本州最西端の下関市である
写真の左側の古い道標(幟の裏)には「右 上方道、左 萩道」と刻まれている
右側の新しい石柱には「吉田旧街道」と彫られ
吉田宿の説明が横に刻まれている
説明には、「旧山陽道の街道筋にあり、江戸時代毛利藩本藩の所領として
吉田宰判の代官所や本陣も置かれ、宿場町として栄えた」
と刻まれていた
(山口県下関市吉田)
高札場跡
丁字路なった旧街道正面に小さな祠がある
ここが、近世の高札場跡である
街道はここで直角に左に曲がる
如何にも宿場の入口らしい枡形となっている
(山口県下関市吉田)
長慶寺
旧街道を左に曲がるとかつての吉田宿に入る
街道左側に長慶寺がある
永禄10年(1567年)、三好長慶の子、信之が
廃寺であった香積寺を再興して、浄土真宗に改宗し
香積山長慶寺の開祖となった
なお、三次長慶は、京都で松永久秀と戦い敗死
子の信之は西下してここまで辿り着いてという
幕末に、この寺は高杉晋作率いる奇兵隊の屯所の一つとなった
病院として利用されたようだ
(山口県下関市吉田)
吉田宿町並み
吉田宿の町並みである
下の写真の石碑には柳町通りとあり
此の辺の道の両側には街道筋の旅籠や茶店が立ち並び
賑やかであったと刻まれている
今は静かな住宅街となっている
(山口県下関市吉田)
吉田宰判勧場、御茶屋跡(本陣跡)
旧街道より一本左側の道に吉田宰判勧場跡と御茶屋(本陣)跡がある
江戸時代、萩・毛利の領地は18の宰判に分かれ統治されていた
吉田宰判はその一つで、当地区域は吉田、厚狭から山中までと広かった
建物の中には代官の他に、50人の役人が詰め、執務していたという
今にも崩れ落ちそうな建物が残されている
(山口県下関市吉田)
吉田一里塚
街道に戻り、少し進むと左側に吉田一里塚跡があった
かつてあった榎の2代目が植えられていた
ここで、街道歩きを中断して、高杉晋作の墓所のある東行庵に立ち寄る
(山口県下関市吉田)
吉田小学校
吉田の一里塚を左折すると左側に吉田小学校がある
この吉田小の門は立派であった
この小学校の前を進み東行庵に向かう
(山口県下関市吉田)
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