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旧山陽道 5

東行庵〜木屋川




長門・下関

奇兵隊堂の尾墓地跡





吉田小の前を通り、東行庵(とうぎょうあん)へ向かう

その途中右手に奇兵隊尾墓地がある
写真はその入口である

案内板には吉田の史蹟
「奇兵隊堂の尾墓地、堂の尾遺跡(弥生式前期)、熊谷家墓所」と記されている

以前はここに宗蓮寺があった
規律違反の奇兵隊隊士がここで切腹させられ埋葬されたという
明治4年の廃仏毀釈で、廃寺となっている

なお、ここで弥生式前期の集落跡が発見され、堂の尾遺跡と呼ばれている


(山口県下関市吉田)


東行庵入口





東行とは高杉晋作の号である

東行庵は高杉新作の菩提を弔うために
愛人だったおうの(梅処尼、ばいしょに)が創始した庵で
晋作の号に因んで名付けられたもの


先ず、入り口から右の坂を上り晋作の墓に行ってみる
途中に白石正一朗の歌碑があった

この白石正一郎は、晋作や奇兵隊を裏から支援した
下関竹崎の勤皇の豪商である

正一郎は歌人でもあり多くの歌を残している
その中から
「白たえの にほえる梅の 花ゆえに あけゆく空も みどりならん」
と一句刻まれている


(山口県下関市吉田)


高杉晋作墓、立像







1枚目の写真は東行墓(高杉晋作墓)、2枚目は晋作立像である

晋作は幕末、、身分の枠を超え、志あるものを集めて
新編成の軍隊である奇兵隊を生み出した

藩論を倒幕に統一し、奇兵隊を率いて活躍した人であるが
結核で、志半ばで慶応3年(1867年)に、わずか27歳8ヶ月の生涯を終えている
遺言により奇兵隊本拠地のあった吉田の清水山に土葬された

3枚目写真は晋作の墓の隣にある福田公明墓である

奇兵隊の参謀・軍監となり、奇兵隊の育成に努め
明治元年の戊辰戦争では北越方面で戦ったが、病で明治元年40歳で歿

遺言により晋作の墓の側に葬られた


(山口県下関市吉田)


東行庵





もみじ谷に架かる小さな橋を渡ったところに
東行庵が残されている

この建物は明治17年に
伊藤博文、山形有朋、井上馨等の名士の寄付により建て直されたもの

梅処尼は明治42年は、ここでその生涯を終えている


(山口県下関市吉田)



東行庵境内







東行庵の境内には、見事な庭園が整備されている
丁度菖蒲が見頃であった

また、境内には東行記念館が設けられており
晋作の遺品や奇兵隊に関する資料が展示されている

2枚目の写真は境内にある
「面白きこともなき世に おもしろく 晋作」
と彫られた大きな顕彰碑である


(山口県下関市吉田)



東行庵駐車場





東行庵の駐車場より、再び吉田の一里塚に戻り、旧山陽道に復帰する

旧街道はこの十字路を左折である


(山口県下関市吉田)


吉田宿遠望、駒辻川






駒辻川に架かる橋より上流(上写真)を見た写真である
背後の家並みは吉田宿だ

駒辻(こまつじ)川は吉田宿の隣接して北側を流れ
この少し先(下写真)の吉田大橋の近くで木屋(こや)川に流入している

木屋川は、長門市の大笹峠が源で、吉田を通り
次の宿場である小月(おづき)で周防灘に流入している

ここから旧山陽道は、木屋川に架かる吉田大橋を渡り
木屋川の右岸(西側)の川沿いの道となる


(山口県下関市吉田)


旧山陽道(県道33号)





旧街道が現在は県道33号線(下関美祢線)となっている
次の宿場である小月(おづき)まで、5kmの距離だ

路傍には2体の大きな石仏があった


(山口県下関市吉田)


観音寺






さらに進むと、右手に高野山観音寺があった

前方に見える橋が木屋川に架かる吉田大橋である
この川沿いの道を行くと、次の宿場小月となる


(山口県下関市吉田)
0806/0808


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略 図

経路 青線部











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